第二次長沙作戦
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第二次長沙作戦
戦争:
日中戦争太平洋戦争
年月日:1941年(昭和16年)12月24日 - 1942年1月16日
場所:湖南省長沙周辺)
結果:中国軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国陸軍 中国国民革命軍
指導者・指揮官
阿南惟幾薛岳
戦力
3個師団、1個旅団交戦兵力:約20万人
損害
戦死1,591 戦傷4,412遺棄死体:約28,612
捕虜:1,065人[1]
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧

1937-1939年
盧溝橋 - 北平 - 廊坊 - 広安門 - 平津 - 通州 - チャハル - 上海渡洋爆撃 - 四行倉庫) - 太原 - 南京 - 徐州台児荘 - 黄河決壊) - 武漢長沙大火) - 広東 - 重慶爆撃 - 南昌 - 襄東 - ?湘 - 南寧崑崙関) - 冬季攻勢 - 翁英
1940-1942年
賓陽 - 五原 - 宜昌 - 百団大戦 - 江南 - 漢水 - 皖南事変 - 予南 - 錦江 - 中原 - 江北 - 一次長沙 - 二次長沙 - 浙?
1943-1945年
江北殲滅 - 江南殲滅 - 常徳 - 大陸打通 (衡陽 - 桂柳 - 南部粤漢) - 拉孟騰越 - 老河口 - ?江 - 湘桂反転

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第二次長沙作戦(だいにじちょうささくせん)とは、日中戦争中の1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦である。太平洋戦争の開戦により始まった香港攻略作戦第23軍)を支援する目的で前回の第一次長沙作戦の3分の2の兵力である第11軍が実施した。広東方面へ南下した中国軍を牽制するのが当初の目的だったが、長沙攻略戦へと発展した。しかし、日本軍は第一次長沙作戦が事前から周到に計画準備された作戦であったの対し、今回の作戦は咄嗟に決心されたものであり、弾薬・食料・医療品・輸送手段などの十分な準備もないまま長沙への進攻を開始したため長沙周辺で準備していた敵の頑強な抵抗を受け、その後反転して引きあげたため中国側は戦勝を喧伝した[2][3]

当初の作戦呼称はさ号作戦。中国側呼称は第三次長沙会戦[4]目次

1 背景

2 中国軍の防衛方針

3 参加兵力

3.1 日本軍

3.2 中国軍


4 経過

4.1 汨水までの作戦

4.2 独断の長沙進攻

4.3 長沙城の戦い

4.4 反転開始

4.5 大山唐の戦い

4.6 影珠山の戦い

4.7 重囲下の第6師団

4.8 撤収完了


5 結果

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

背景 阿南惟幾中将

1941年9月から10月にかけて行われた第一次長沙作戦について、第11軍司令官の阿南惟幾中将は大きな成果を収めたと満足していた。ところが11月23日頃、支那派遣軍総司令部内での「長沙作戦がかえって敵の逆宣伝の材料になっている」との声が耳に入り、阿南軍司令官は鬱憤を募らせた。また、太平洋戦争の開戦によって中国戦線が戦争の主戦場で無くなったとみる風潮が広がるのを恐れた阿南軍司令官は、積極的・攻撃的な態勢を整えるよう訓示を行った[2]

12月8日、華南の日本軍(第23軍)は香港攻略作戦を開始したが、この背後を衝くため中国軍(第4軍・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始した。これを知った第11軍では、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、12月13日には阿南軍司令官が即座に作戦を決裁した。第一次長沙作戦が事前から周到に計画準備された作戦であったの対し、今回の作戦は咄嗟に決心されたものであり、弾薬・食料・医療品・輸送手段などの準備は十分に整っていなかった[2][3]

この牽制作戦の構想は、3個師団を投入して、新牆河南岸の第20軍を撃破し、汨水岳州と長沙の中間)南側で第37軍を撃破、二週間で作戦を終えるという簡単なものであった(当時の日本軍の判断では、この方面の中国軍は第20軍・第58軍・第37軍の計7個師ほどと考えられていた)[5]

しかし軍司令部内では、早くも「長沙進攻」が議論されていた。木下勇参謀長によれば、12月19日に軍司令部を訪れた第3師団長の豊嶋房太郎中将は作戦の方針に満足せず、長沙へ行きたがっている様子であったとされ、第3師団の兵士の間でも「長沙へ行く」との噂が広がっていた。また、12月20日の阿南軍司令官の日誌にも既に「第二次長沙作戦」との記述があり、長沙占領を決心していたとみられている[6]
中国軍の防衛方針 第9戦区司令長官薛岳上将

第一次長沙作戦後、重慶国民政府は長沙の不落を宣伝し、湖南省・長沙の重要性を認識した?介石委員長は、第6、第9戦区の軍長・師長を南岳へ招集して督励した。また、第9戦区司令長官・薛岳上将は、11月17日に戦区内の官僚・軍人代表を長沙に集め、軍民一体による戦備の強化を訴えた。薛岳長官は、その防衛方針として「天炉戦法」と名付けた後退決戦の戦略を示した。それは道路の徹底破壊、中間地帯の焦土化(空室清野)、伏撃地区の縦深配置などで敵との戦力の逆転を図り、決戦地区(長沙付近)に誘い出した日本軍を四周から「天然の炉で鉄を溶かす」ように包囲殲滅するという戦略である[7]


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