第二次怪獣ブーム
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第二次怪獣ブーム (だいにじかいじゅうブーム)とは、1971年昭和46年)から1974年(昭和49年)[注釈 1]にかけてテレビ番組を中心として起こった社会現象。別称変身ブーム[出典 1][注釈 2]
概要

発端年である1971年(昭和46年)は、第二次ベビーブームに伴う児童増加に伴い、「変身ヒーロー」が登場する番組がテレビ子供番組を網羅していた時代。1966年(昭和41年)発端の「怪獣ブーム」はすでに過ぎ、映画界は斜陽を迎えてテレビ番組が子供たちの娯楽の主役となったうえ、子供番組特撮よりも「スポ根もの」やアニメが大半を占めていた[5][2]。しかし、「第一次怪獣ブーム」期の作品の再放送や関連商品の発売は絶えず続けられていた[2]

1970年(昭和45年)、TBSが9月28日から『ウルトラファイト』(円谷プロ)を放映開始すると、玩具会社「ブルマァク」の怪獣ソフビ人形の売れ行きが急増する。ブルマァク社は「怪獣ブーム」の再燃を確信し、玩具店の店頭でキャンペーンを行い、円谷プロやTBSに新番組制作を積極的に働きかけた。

1971年(昭和46年)1月2日、ピー・プロダクションフジテレビで「怪獣ブーム」再燃の発端と称される『宇宙猿人ゴリ』を放映開始[2]。およそ3年ぶりに「巨大ヒーロー番組」が放送された。続いて4月より、かつて「怪獣ブーム」を支えた円谷プロダクションによる『帰ってきたウルトラマン』がTBSで放映開始[2]。同月には『宇宙猿人ゴリ』が平均視聴率20%以上を記録していた裏番組『巨人の星』の視聴率を上回った[2][8]

1971年後半からは、特撮ヒーロー番組も一気に増えることとなり、同じ変身ものの『シルバー仮面』(TBS)と『ミラーマン』(フジテレビ)が同時間帯でぶつかり合うという現象まで起きた[9]。テレビ主体の「変身ブーム」がピークを迎えた翌1972年(昭和47年)には、在京在阪のテレビ局が番組制作を競い合う状況となり、番組編成にも影響を与え、関東地方において『変身忍者 嵐』(毎日放送)と『ウルトラマンA』(TBS)がぶつかり合う同様の現象を招いたほか、『突撃! ヒューマン!!』(日本テレビ)のように制作局側が『仮面ライダー』に対抗してわざと番組放映を同時間にぶつけるなど、実写・アニメ・舞台劇を問わない熾烈な競争が繰り広げられることとなった。また、「特撮時代劇」の『変身忍者 嵐』と『快傑ライオン丸』、「合体変身」の『ウルトラマンA』と『超人バロム・1』など、設定面の競合もみられるようになった[2]

この社会現象としての「怪獣ブーム」、「変身ブーム」が「第二次怪獣ブーム」との呼称で文献に現れるのは1979年(昭和54年)発行の『空想特撮映像の素晴らしき世界・ウルトラマンPART2』(朝日ソノラマ刊)、『大特撮』(有文社刊)などからである。
「仮面ライダー」と「変身ブーム」

第一次怪獣ブーム」との違いは、『帰ってきたウルトラマン』と同じ4月に毎日放送(当時はテレビ朝日系列)で放映開始された東映制作の『仮面ライダー』によって明確にされた、「変身」という概念である[1][2]

当時のマスコミはこの社会現象を「怪獣ブーム」とする一方、この『仮面ライダー』起源の「変身ブーム」「ヘンシンブーム」と呼び習わしていた。前回のブーム時とは異なり、今回のブームでの子供たちの嗜好は、遊びに直結しやすい「等身大変身アクション」に傾いていた[10][2]。前回のブームの主役であった円谷プロが制作した『帰ってきたウルトラマン』は、常時30%に迫る視聴率を上げていた『仮面ライダー』に、ついに視聴率で勝つことができなかったのである。

1972年(昭和47年)に「変身ブーム」は最高潮に達し、児童が『仮面ライダー』の劇中のアクションを真似て負傷する事故が多発したうえ、2月には死亡事故も発生するなど社会問題化した。同様の問題は、昭和30年代の「忍者ブーム」の際に「忍者ごっこ」で子供たちが負傷する、という前例があるが、制作局の毎日放送はこれを重要視し、ついには番組中で主人公「本郷猛」による呼びかけが行われる事態となった。この呼びかけは次作『仮面ライダーV3』(毎日放送)にも引き継がれている[11]

この空前の「変身ブーム」を語る際に欠くことのできない事項として、東映生田スタジオの存在がある。『仮面ライダー』を制作するために東映の資本下に新設されたこのスタジオは、以後も『仮面ライダーシリーズ』を中軸に、『超人バロム1』(よみうりテレビ)、『変身忍者嵐』(毎日放送)、『イナズマン』(NET)といった等身大変身アクション番組を次々と送りだし、まさに「変身ブーム」の屋台骨となった。
「変身ポーズ」の登場「仮面ライダーシリーズにおける変身」も参照

『仮面ライダー』は、巨大ヒーローものと一線を画す「等身大のヒーロー」であり、当初はスタッフも路線に迷い、巨大ヒーロー化案が検討された経緯があるが、7月からの「2号ライダー」登場に伴い、定番パターンとして歌舞伎の「見得」を採り入れた「変身ポーズ」を劇中に盛り込んだ。

主人公の「一文字隼人」がヒーローである「仮面ライダー」に変身する際に「変身!」と掛け声をあげ、揃えた両手を大きく振りかぶって「決め」をとるこの「変身ポーズ」は、その真似のしやすさもあって子供たちの間で爆発的なブームを呼び、「変身ポーズ」と「変身」は一大社会現象となり、テレビ番組から日本列島を席巻していった。子供たちは、こぞってこの「変身ポーズ」を遊びに採り入れ、まさに子供の遊びの作法を一変させた。

また、「変身ポーズ」は他番組にも多大な影響を与えた。「変身ブーム」の真っただ中に円谷プロが制作した『ウルトラマンA』(TBS)は、「男女合体変身」という新機軸を盛り込んだ意欲的な作品だったが、「子供たちが変身ごっこをする際に真似しにくい」との理由が大きな要因となって、結局は劇中から設定自体が排除され、より真似しやすい単独変身に変更されてしまった。
「怪人」と「戦闘員」の登場

『仮面ライダー』のエポックとしてもうひとつ、「怪獣」にとって代わる存在としての怪人というキャラクターが挙げられる[注釈 3]。エキスプロのデザイナー三上陸男は、「それまでの怪獣は人間の体形から離れようとしたが、仮面ライダーの怪人は逆に人間の体形に近づけていった」とコメントしており、「怪人」はあくまで「怪獣」と差別化する方向で造形されていた。『仮面ライダー』の巨大化案が検討された際にも、石森章太郎の怪人デザインはあくまで人間体形だった[12]。こうして石森のデザインをエキスプロの高橋章がまとめる形で生み出されていった、この「ベルトを着け、ブーツをはいた戦闘用改造人間=怪人」のイメージは、子供たちに怪獣と並ぶキャラクターとして絶大な人気を得ることとなり、「変身ヒーロー番組」に「怪人番組」の別称をも与え、現在もなお引き継がれる意匠となっている。1971年(昭和46年)にケイブンシャが発行した写真図鑑の題名は、『原色怪獣怪人大百科』と「怪人」が「怪獣」と並んだ存在として銘打たれている。

さらにもうひとつ、『仮面ライダー』で確立した大きな要素として、怪人に付加して戦闘員というレギュラーキャラクターの登場が挙げられる。それ以前の作品においても『マグマ大使』の人間モドキや、『仮面の忍者 赤影』の下忍など「戦闘員」に該当するキャラクターは存在していたが、「ショッカー戦闘員」に始まる「全身タイツに身を包み、奇声を発しながらヒーローを群がり襲う戦闘員集団」というイメージは、以後に続く特撮ヒーロー番組の劇中アクションやアトラクションに欠かせない重要なキャラクターとなり、現在では漫才やコントにまで取り入れられるポピュラーな存在となっている。
他番組への影響


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