第二次世界大戦の背景
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第二次世界大戦の背景(だいにじせかいたいせんのはいけい)では、1939年第二次世界大戦が勃発した背景について説明する。

アジア・太平洋での戦争については日中戦争太平洋戦争も参照。
概要
ヴェルサイユ体制と世界恐慌ドイツがヴェルサイユ条約によって喪失した領土

ヨーロッパでは、1919年第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランドチェコスロヴァキアリトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしこれらの領域には多数のドイツ系住民が居住しており、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1922年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。

アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできなかった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズムナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[1]
ファシズムの台頭ヒトラーとムッソリーニ

ファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922年、ファシスト党を率いるベニート・ムッソリーニローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは1935年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが元となってイタリアは1937年に国際連盟及び国際労働機関を脱退した。

ドイツでは1933年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。

法曹の国粋主義団体としては1924年には国本社、1925年には帝国弁護士会が設立されており、1931年に関東軍の独断による柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟及び国際労働機関を脱退し、翌年にはワシントン海軍軍縮条約を脱退。司法省は、ナチス・ドイツ関連の論文を発行し始めた[2]。満州事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937年に盧溝橋事件、第二次上海事変が発生し日中戦争が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。

国内情勢は、日英同盟によって、第一次世界大戦の戦勝国側であった日本は、その後のワシントン体制やロンドン海軍軍縮会議等の軍縮の流れに乗らざるを得なかったという事情もあり、軍部には不満をもつ者もいた。

更に1923年の関東大震災や1929年の世界恐慌の影響で国内に大きな打撃を受けていたタイミングで、日本では井上蔵相の下、1930年に金本位制への復帰を宣言してしまう。世界恐慌という事象を甘くみすぎていた事が仇となり、金本位復帰後すぐに国内から正貨が大量に流出した。また、輸出で賄っていた企業は、主要輸出先であるアメリカ等が不況であった為に大打撃を受け、物が売れず、戦前でも最悪のデフレ状態となってしまう。農村では生糸の輸出が主な稼ぎだった家庭も多く、そういった家庭では娘の身売りなどが起き、政府に対する不満は高まっていった。そんな中、1932年に金本位制をうったえていた井上前蔵相等が右翼団であった血盟団によって襲撃、殺害される血盟団事件が発生。同年には当時の首相であった犬養毅の自宅や警視庁、変電所、日本銀行等を海軍青年将校が計画的に襲撃、同時に犬養首相らを殺害する五・一五事件が発生。しかしこれらの事件の実行犯は嘆願書等の事由により、軽い刑罰で済んだ。この事が後に軍部の発言力を増す要因になる。1936年には皇道派陸軍青年将校が武力によって政治改革をするため、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実らを襲撃し殺害する二・二六事件が発生。同事件は同陸軍により鎮圧されるも、この事件後、皇道派は衰退し、逆に東條英機統制派が勢力を伸ばすことになる。詳しくは同ページの「アジア各国の情勢」を参照のこと。
宥和政策とポーランド問題

英仏では、ナチス・ドイツの軍備拡張政策に対して、第一次世界大戦で受けた膨大な損害の反動から国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、宥和政策を取ることに終始していた。ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。オーストリアには第一次世界大戦後ドイツとの一体を望む声がありながら、ドイツの力を殺ぐ目的でサン=ジェルマン条約にて禁止されていた。しかしオーストリア政府の反対にもかかわらず、1938年3月オーストリア国民の熱狂的とも言える支持のもとオーストリアを併合した。
チェコ問題

ヒトラーは、チェコスロバキアズデーテン地方に狙いを定めた。ズデーデン地方はドイツ系住民が多く居住していた。当時、その数は310万人とされている。なぜズデーテン地方がチェコ領になっている理由は以下の通りである。

1918年10月28日にドイツ内のチェコスロバキア独立派のエドヴァルド・ベネシュはチェコスロバキアの独立を宣言した。それに対し現地の在住のドイツ人は翌10月29日にドイツ人帝国議会議員が中心として、エーガラントと北ボヘミアに「ドイツ系ボヘミア州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」の成立を宣言したものの、チェコ軍団が侵攻を開始し、ドイツ系ボヘミア州政府はドイツへ亡命した。こののちに開かれたパリ講和会議ではアメリカ合衆国は民族自決の概念からドイツへの編入を要望し、オーストリアはチェコへの編入に強く反対していた。しかしフランスの要求が通り、ドイツ系ボヘミア州はチェコスロバキアの領土となることが確定した。


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