第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
ドイツ統一の一環中
プロイセン=オーストリア軍の進撃ルート
時1864年2月1日?10月30日
(8ヶ月と29日)
場所シュレースヴィヒ公国、ユトランド半島ホルシュタイン、ザクセン=ラウエンブルク公領
結果プロイセン=オーストリア軍の勝利
領土の
変化デンマークはシュレースヴィヒ、ホルシュタイン、ザクセン=ラウエンブルクをプロイセンとオーストリアに奪われる。
ウィーン条約
衝突した勢力
プロイセン王国
オーストリア帝国 デンマーク王国
指揮官
ヴィルヘルム1世
オットー・フォン・ビスマルク
フリードリヒ・フォン・ヴランゲル
ヘルムート・フォン・モルトケ
フリードリヒ・カール・ニコラウス
カール・フォン・ビッテンフェルト
エドゥアルド・フォン・ヤッハマン
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(だいにじシュレースヴィヒ=ホルシュタインせんそう)は、1864年に、デンマークとプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争である。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の帰属をめぐるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が原因である。プロイセン側の勝利となり、両地方はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれた。ドイツ連邦兵士高地占領のドイツ連邦兵士 シュレースヴィヒとホルシュタインは、デンマーク王国ではないが、デンマーク王を公としていただく同君連合の形でデンマークに支配されていた。両地方の多数派はドイツ人であり、19世紀にドイツに民族主義が高まると、両地方でもデンマークから分かれてドイツに帰属しようとする運動が盛んになった。1848年から1852年には、プロイセンなどドイツ諸邦が第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をしかけたが、諸外国の仲介があり、ロンドン議定書により領土の変更なくデンマークの支配が継続した。 1863年3月にデンマークは憲法を改正し9月に施行したが、これにはシュレースヴィヒのデンマークによる併合が含まれており、10月には反発したザクセン軍とハノーファー軍の12,000の兵がホルシュタインに進駐してデンマークを威嚇した。 同年にフレデリク7世が死去すると、オレンボー家は断絶し、その後継者として同家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が登極した。しかしシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡る争いは決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維持であった。フレデリク7世が生前に布告した「継承令」には、当時の王家による両公国の継承も含まれていた。これを「11月憲法」と言うが、その条目はロンドン議定書には含まれていなかった。この盲点を突いて、プロイセン王国首相ビスマルクは、条約違反を主張し、「継承令」及び「11月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクには、多数の住民がドイツ人であることから、同地を併合してキール港を入手し、北海とバルチック海を結ぶ運河を構築する狙いがあった[1]。 デンマークは外交によって解決可能であると楽観視し、プロイセンの要求には応じなかった。列強はプロイセンに同調したが、スウェーデンだけは参戦して来るという目論見があった。汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、スウェーデン王カール15世はデンマークを完全に支持し、2万の兵の派遣を約束していたのである。しかしスウェーデンではすでに国王の手から政治的実権が離れつつあり、スウェーデン議会は軍の派遣を拒否した。汎スカンディナヴィア主義は、これをもって事実上挫折した。 プロイセン首相ビスマルクは、列強を中立化させる事に成功した。さらにデンマークに対しシュレースヴィヒ併合憲法の廃止まで48時間の猶予しか与えなかった。1864年1月、デンマークはプロイセンの勧告を拒絶することを回答した。 1864年1月31日に集結を完了したプロイセン・オーストリア連合軍は、2月1日の宣戦布告とともにキール運河とアイダー川を越えてシュレースヴィヒに侵攻し、エッカーンフェルデからソルゲ川の線まで進出した。2日、プロイセン第1軍団はミッサウンドの橋頭堡を攻撃したがデンマーク軍の抵抗により撃退された。オーストリア軍とプロイセン混成近衛師団はダンネウェルク要塞に接近して攻撃準備を調えた。ヴランゲル元帥は敵状視察を行い、ミッサウンドの突破を困難と判断し、直率によるアンゲルン半島最東部のアロイスからの渡河を企画した。架橋や渡船の資材輸送で準備は遅れたが5日の夜には架橋作業に入り6日午前10時に作業完了、午後4時には渡河を終えた。
戦争に至る経緯
兵力と作戦
プロイセン・オーストリア連合軍 総司令官ヴランゲル元帥(プロイセン王国) 合計約55,000人、大砲180門。
プロイセン軍 司令官カール・フリードリヒ親王 :プロイセン第1軍団 約24,000人、大砲約110門
オーストリア軍 司令官ガブレンツ元帥 :オーストリア第6軍団 約20,000人(歩兵4個旅団、騎兵1個旅団)、大砲約55門
普軍 司令官フォン・ミルベ将軍 :混成近衛師団 歩兵10,000人、騎兵500騎、大砲16門。(オーストリア軍の左翼に付属)
オーストリア海軍 テゲトフ提督の指揮する連合艦隊
プロイセン・オーストリア連合軍はまずシュレースヴィヒの占領を目的とし、プロイセン第1軍団はキール付近に集結して東部へ侵攻、レンデスブルク南方に集結したオーストリア軍と普混成近衛師団は西部へ侵攻する計画であった。
デンマーク軍 総司令官メザ将軍 合計約4万、大砲約100門
歩兵約3個師団半、騎兵1個師団、その他砲工兵
その他、デンマーク海軍
デンマーク軍は国境のアイダー川畔のレンツブルクと、エッカーンフェルデに小監視部隊を派遣すると共に、ダーネヴェルク
開戦