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カルナータカ地方(青い部分)
カーナティック戦争(カーナティックせんそう、英語:Carnatic Wars)とは、18世紀に南インドで、イギリス領インドの拠点であったマドラスとフランス領インドの拠点であったポンディシェリーとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ここで言及されるカルナータカ地方は、現在のアラビア海に面したカルナータカ地方とは違い、アーンドラ地方とタミル地方の一部を指す。また、カーナティックは英語読みであるため、カルナータカ戦争とも呼ばれる。
ヨーロッパのオーストリア継承戦争と七年戦争と連動し、南インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。
第1次カーナティック戦争(1744年 - 1748年)アンワールッディーン・ハーン18世紀の南インドの情勢
17世紀後半に絶頂期をむかえたムガル帝国も、1707年にアウラングゼーブが死去すると分裂状態に陥った。これに乗じてイギリス東インド会社はマドラスを拠点に、フランス東インド会社はポンディシェリーを拠点に、ともに勢力を伸ばして争った。
ムガル帝国の分裂後、1713年以降はカルナータカ太守が帝国から事実上独立してカルナータカ地方を支配していた。だが、太守家であるナワーヤト家は内乱に陥り、デカンのニザーム王国の介入を受けた。1742年10月には太守サフダル・アリー・ハーンが暗殺されるなど、その宮廷の状況は極めて悪かった。
1744年7月に太守サアーダトゥッラー・ハーン2世が殺されると、ニザーム王国のアーサフ・ジャー1世によって、ワラー・ジャー家のアンワールッディーン・ハーンが新太守に任命された。
これに激怒したのがナワーヤット家のチャンダー・サーヒブで、彼はサアーダトゥッラー・ハーン2世の義理の叔父である自分こそが新太守にふさわしいと思っていた。
これにより、ナワーヤト家とワラー・ジャー家との対立が生じた。また、1740年にヨーロッパで勃発したオーストリア継承戦争でのイギリスとフランスの戦闘がインドにも波及し、マドラスを拠点としたイギリスと、ポンディシェリーを拠点としたフランスとの間に緊張が走った。デュプレクス焼打ちにあうマドラスフランスのマドラス占領
そして、1744年にカルナータカ地方の沿海で、イギリスがフランスの船を捕えたため、第1次カーナティック戦争(カルナータカ戦争)が勃発した。
アンワールッディーン・ハーンは陸上での戦いを禁止したため、イギリスとフランスは海上での戦いを中心としたが、のちに両国はこれを無視するようになり、争いは陸上に持ち込まれた。
イギリスとフランスは南インドの地で4年に渡り争った。当初、イギリスは南インド東海岸一帯を占領するが、フランスはポンディシェリのフランス領インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもと優勢に戦い、一時は中部・南部インドでイギリス勢力を圧倒し、1746年9月21日にはマドラスの戦いでマドラスを占領するなど善戦した。
1748年10月、オーストリア継承戦争が終わるとアーヘンの和約が結ばれ、フランスもマドラスを返還し、第1次カーナティック戦争は終結した。
なお、この第1次戦争では現地勢力はあまり関与しなかったが、アンワールッディーン・ハーンがマドラス陥落の直前に援軍を送ったことで、これ以降戦争は現地勢力も巻き込んでいくこととなった。
第2次カーナティック戦争(1749年 - 1754年)ムザッファル・ジャングと面会するデュプレクス アンブールの戦い
第1次戦争が終結した同年、デカンのニザーム王国ではアーサフ・ジャー1世が死亡した。デュプレクスは、王位を息子のナーシル・ジャングと孫のムザッファル・ジャングが争っていることに目を付けた。
またイギリスとフランスは、カルナータカ地方政権とニザーム王国の内部争いに関与した。デュプレクスはチャンダー・サーヒブやムザッファル・ジャングと結ぼうとし、ムザッファル・ジャングは叔父ナーシル・ジャングを倒すため、チャンダー・サーヒブはアンワールッディーン・ハーンから太守位を奪うため、これに協力した。
そして1749年8月3日、フランスとチャンダー・サーヒブとムザッファル・ジャングの連合軍36,000は、アンワールッディーン・ハーン軍20,000をアンブール
で破り、アンワールッディーン・ハーンは殺害された(アンブールの戦い)。ムハンマド・アリー・ハーンアンワールッディーン・ハーン殺害後、その息子ムハンマド・アリー・ハーンが新太守となったが、チャンダー・サーヒブも太守位(在位1749 - 1752)を宣し、2人の太守が両立する形となった。
ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスと結んでティルチラーパッリ要塞に逃げ込み、チャンダー・サーヒブはフランスと結び、第2次カーナティック戦争が勃発した。
1751年から1752年にかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助のもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城するティルチラーパッリ要塞を攻めた。だが、1751年12月に手薄だった首都アルコットを、イギリスのロバート・クライヴに奪われてしまう(アルコットの戦い)。
1752年4月にはチャンダー・サーヒブ自身も敗れ、タンジャーヴール・マラーター王国に援助を求めたが、同年6月14日に裏切られて殺害された。
その後、デュプレクスは善戦したが、フランスは戦争の長期化を避けるため1754年8月にデュプレクスを本国に帰還させ、10月にポンディシェリー条約を結んで第2次カーナティック戦争は終結した。
第3次カーナティック戦争(1758年 - 1763年)ラリー侯爵ヴァンディヴァッシュの城塞
1756年8月、ヨーロッパで七年戦争が勃発する。1758年には南インドでも英仏間による第3次カーナティック戦争が勃発した。
その前年、1757年10月にプラッシーの戦いが起きた。この戦いでイギリスはロバート・クライブの活躍により、フランスに味方したベンガル太守軍に勝利する。ベンガル地方はイギリスの勢力下に入っていた。
フランス東インド会社は、この敗北に反撃し劣勢を覆すために、チャンダー・サーヒブの息子ラザー・サーヒブを擁立。