第二次ウィンチェスターの戦い
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第二次ウィンチェスターの戦い
Second Battle of Winchester
南北戦争

1863年6月13日 - 6月15日
場所バージニア州フレデリック郡およびウィンチェスター
結果南軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ロバート・H・ミルロイリチャード・イーウェル
戦力
第8軍団第2師団 (6,900)北バージニア軍第2軍団 (19,000)
被害者数
4,443 (戦死95
 負傷348
 不明または捕虜4,000)269 (戦死47
 負傷219
 不明3)

第二次ウィンチェスターの戦い(だいにじウィンチェスターのたたかい、英:Second Battle of Winchester)は、南北戦争ゲティスバーグ方面作戦の一部として1863年6月13日から6月15日に、バージニア州フレデリック郡およびウィンチェスターで起こった戦闘である。南軍リチャード・イーウェル中将がペンシルベニア州に向かってシェナンドー渓谷を下る途中で、北軍ロバート・H・ミルロイ少将が指揮する守備隊を破り、ウィンチェスター市を占領し、4,000名の北軍兵を捕獲した。
背景

1863年6月9日ブランディ・ステーションの戦い後に、南軍のロバート・E・リー将軍は、その北バージニア軍のイーウエルが指揮する第2軍団19,000名に、シェナンドー渓谷低地にいる北軍抵抗勢力を一掃することを命じ、それでリー軍本隊が北軍の干渉からブルーリッジ山脈に遮蔽されて、ペンシルベニア州まで侵攻できるよう考えていた。

北軍の総司令官ヘンリー・ハレックは中部方面軍の防御戦略がその主要な目標はボルティモア・アンド・オハイオ鉄道のルートを守ることであることについて大いに心配していた[1]。「鉄道師団」の指揮官ベンジャミン・フランクリン・ケリー准将(ハーパーズ・フェリー方面軍)は、ミルロイ少将とロバート・C・シェンク少将(中部方面軍指揮官)の作戦と共にケリー自身の作戦も不安定という通知を受けていた。第8軍団作戦本部、
ボルティモア1863年1月5日

次の電報が総司令官ヘンリー・ハレック少将から今日届いた。

"シェンク少将: 敵の大部隊に対してウィンチェスターを守ろうとすべきでない..."

ハレック将軍はリーズバーグ、ウィンチェスターおよびロムニーの前哨基地を維持することで道路を遮蔽し防御する政策について、シェンク将軍と貴方自身に全く同意していない。 ? WM. D. WHIPPLE、総務局長補[2]
対戦した戦力
南軍北バージニア軍イーウェルの第2軍団

リチャード・イーウェル中将の19,000名の部隊は次の構成だった。

ジュバル・アーリー少将師団、ハリー・T・ヘイズ(ルイジアナ・タイガース旅団)、ウィリアム・"イクストラ・ビリー"・スミス、ジョン・B・ゴードンおよびアイザック・E・アベリー各准将の旅団

ロバート・E・ローズ少将師団、ジュニアス・ダニエル、ジョージ・P・ドールズ、アルフレッド・アイバーソン、スティーブン・ドッドソン・ラムスール各准将およびエドワード・A・オニール大佐の旅団

エドワード・"アレゲニー"・ジョンソン少将師団、ジョージ・H・スチュアート、ジェイムズ・A・ウォーカー(ストーンウォール旅団)、ジョン・M・ジョーンズ各准将およびジェシー・M・ウィリアムズ大佐(ニコル旅団)の旅団

アルバート・G・ジェンキンス准将の騎兵旅団

J・トンプソン・ブラウン大佐の砲兵予備隊

北軍中部方面軍第8軍団第2師団

ロバート・H・ミルロイ少将の6,900名の部隊は、ワシントン・L・エリオット准将とアンドリュー・T・マクレイノルズおよびウィリアム・G・エリー各大佐の3個歩兵旅団、およびジョセフ・W・キーファー大佐の町北西の小さな前哨隊より構成された。
初期の動き
北バージニア軍の動き

イーウェル軍の動きは、北バージニア軍がブルーリッジ山脈を遮蔽物に使って、ペンシルベニア州に向けポトマック川を越える全体の動きの一部として協調が取れていた。この戦略的攻勢操軍は、ロバート・E・・リー将軍が、秘密にシェナンドー渓谷を下る動きで「ポトマック川の向こうに戦争の現場を移す」とその意図を洩らした6月3日に行動に移された。

ジェイムズ・ロングストリート中将の第1軍団(スニッカーズ・ギャップ経由)とA・P・ヒル中将の第3軍団(アッシュビーズ・ギャップ経由)は第2軍団の動きと並行してベリービルを抜けて東行しており、スチュアートの騎兵師団はブルーリッジ山脈の東、北バージニア軍右側面にそって示威行動と遮蔽行動を行うことで注意深くリー軍の動きと同調し遮蔽するように命令されていた。
イーウェルの第2軍団の動き
6月4日-11日
第2軍団は
6月4日にハミルトンズ・クロッシングを出発し、カルペパーに向かい6月7日に到着した。北軍が大挙してラッパハノック川を渡ったという情報が入り、リーはイーウェルに北東のブランディ・ステーションに向かうよう命じ、イーウェルは6月9日のブランディ・ステーションの戦いでJ・E・B・スチュアートの戦いを支援しようとしたが、既に北軍は退却した後だった。イーウェルは6月10日に進軍を再開し、6月11日にはアーリーとジョンソンの師団がスペリービル・ターンパイクを経てゲインズ交差点に至り、一方ローズ師団はリッチモンド道路を通ってフリントヒルに至った[3]。11日の夜、イーウェルはリーに相談した後で、アーリー、ジョンソンおよび第2軍団の地形学者であるジェデディア・ホッチキスと会い、接近路と第2軍団の目標であるウィンチェスターとマーティンスバーグの占領について検討した[3]
6月12日
第2軍団はフロントロイヤルの南西、チェスターズギャップを過ぎてフロントロイヤル・パイク(現在のアメリカ国道522号線)を進んだ。そこでアルバート・G・ジェンキンス准将の騎兵旅団が合流した。イーウェルはアーリーとジェンキンスに相談して軍団レベルの作戦を作り、軍団を分けて2つの基本的に独立した動きをすることにした[4]

北のベリービルとマーティンスバーグに対して妨害と遮断の操軍:

部隊: ローズ師団およびジェンキンスの騎兵旅団

進軍方向: 北に分岐しベリービルを経てマーティンスバーグに至る

イーウェルの目的: もし可能ならばマクレイノルズの1,800名の部隊を捕獲し、北のマーティンスバーグに圧力を掛ける


ウィンチェスターに向けた主力部隊の操軍:

部隊: アーリー師団、ジョンソン師団およびジェンキンスの騎兵旅団のうち第16バージニア騎兵大隊(ジェイムズ・H・ヌーナン少佐)

進軍方向: 北西のウィンチェスターに向かう

イーウェルの目的: ウィンチェスターの要塞とミルロイの6,000ないし8,000名の部隊を攻撃する

6月12日の終わりまでに、ローズ師団はフロントロイヤルの北5マイル (8 km)に達してストーン橋で宿営し、ジョンソン師団はシーダービルに、アーリー師団はシェナンドー川で宿営した。
ミルロイの防御準備
べりービル前哨基地

ミルロイは4月までに4ヶ月間ウィンチェスター市を占領しており、シェナンドー渓谷下流で南軍の襲撃を野放しにしていたために、中部方面軍指揮官のシェンクは心配するようになり、さらに東のべりービルに1個旅団を置いておくようミルロイに命じた。そこからはシェナンドー川を渡って偵察し、渓谷の東境界であるブルーリッジ山脈にあるスニッカーズ・ギャップとアッシュビーズ・ギャップの内外を南軍襲撃隊を探し求める作戦基地になった[5]。ミルロイは命令に応えてマクレイノルズの旅団をべりービルに置き、重砲の1つの発砲を合図にそこを放棄してウィンチェスターに帰ってくるよう命令していた。
騎兵の防御

ミルロイはウィンチェスターの周りに哨兵を配置したが、偵察は疲れるものだったためにウィンチェスターに非常に近く配置されたので、ミルロイは周りの事情を掴んでいないのと同じだった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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