第二政党制_(アメリカ合衆国)
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二大政党制」とは異なります。

第二政党制(だいにせいとうせい、: Second Party System)は、政治学者や歴史学者がアメリカ合衆国における政党政治の展開について触れるときに用いる時代区分のひとつであり、おおまかに第一次政党制に続く1828年から1854年までを指す(研究者によって時代の始まりと終わりの年が前後する場合がある)。第二次政党制の特徴としては、1828年以降、選挙における投票率が上昇するなど、有権者の関心が急速に高まったことが挙げられる。各政党は、有権者の支持を得るべく選挙集会を開催したり党機関誌を配布したりした[1][2][3]

この時期の主要政党は、アンドリュー・ジャクソンが率いる民主党と、民主共和党の中やその他ジャクソンに反対する者をヘンリー・クレイがまとめたホイッグ党だった。少数党としては、1827年から1834年に重要な革新者だった反メイソン党、1840年の奴隷制度廃止運動家による自由党、1848年と1852年の大統領選挙で動いた反奴隷制度の自由土地党があった。第二次政党制は1850年代半ばに第三次政党制に引き継がれるまで、ジャクソン時代の政治、社会、経済および文化の潮流に影響し、形作られてきた[4]
第二次政党制の特徴

歴史家のリチャード・P・マコーミックはこの「第二次政党制」を定義した可能性の最も強い者とされている。以下のような定義に基づいている[5]

他とは区別できる政党制時代である

15年以上の期間存在した。ただし州によってその期間は異なる

大統領に当選しようとした指導者達によって創られ、競争者達は独自の全国的党派を作り上げた

地域の影響がその発展に強く影響した。例えばジョン・クインシー・アダムズはニューイングランドで最強であり、ジャクソンは(当時の)南西部で強かった

アメリカ合衆国南部中西部にも初めて二大政党制が及んだ(これ以前は一党支配の地域だった)

各地域で二大政党の勢力がほぼ均衡していた(このような状況は最初でかつ唯一の状況だった)

地域的な均衡のゆえに、地域固有の問題(例えば奴隷制度)に脆弱だった

同じ2つの政党が全州に登場し、選挙人選挙でも州役人の選挙でも競い合った

最も重要なことは1832年から1834年に二大政党が南部に急速に出現したことだった(その大半はヴァン・ビューレンに対する反応)

反メイソン党は第二政党が弱い州でのみ盛り上がった

方法は多少異なったものの、各地で政治会議が党員集会に変わって登場した

各党は党活動家の役職追求という意味で、独自の興味を持っていた

この政党制で新しく広く行われた選挙運動がもたらされた

カリスマ的候補者が居らず、特別の問題も無かったので、選挙が接戦となり有権者を駆り立てた

党指導者達はそれぞれの考えで、ある程度その党を作り上げた

指導者

民主党の著名な指導者は、アンドリュー・ジャクソンマーティン・ヴァン・ビューレンジョン・カルフーンジェームズ・ポークルイス・カスおよびスティーブン・ダグラスであり、対するホイッグ党の指導者は、ヘンリー・クレイダニエル・ウェブスターウィリアム・スワードおよびサーロー・ウィードだった[3]
第二次政党制出現の原因

1824年アメリカ合衆国大統領選挙は現在のような明確な二大政党制を欠いた状態で争われ、4人の候補者の戦いとなった。各候補者、ヘンリー・クレイ、ウィリアム・クロウフォード、アンドリュー・ジャクソンおよびジョン・クインシー・アダムズは、全てが民主共和党員であり、幾つかの州における派閥を含め地域的な支持基盤があった。選挙人投票では過半数を獲得した候補者が居らず、決着はアメリカ合衆国下院での投票に持ち込まれた。一般選挙の投票結果でまずヘンリー・クレイが脱落し、残り3人での決戦となった時点で、下院議長も務めていたヘンリー・クレイは交渉での決着を図った。アンドリュー・ジャクソンは一般投票でも選挙人投票でも最多数を獲得していたが、当選できなかった。第二代大統領ジョン・アダムズの息子、ジョン・クインシー・アダムズが当選し、即座にクレイを国務長官に選出した[6]

ジャクソンは、国内の対インディアン戦争で最も有名であり、米英戦争の英雄でもあった。ジャクソンはアダムズとクレイの「闇取引」を声高に非難した。地方の民兵隊や州の政治派閥に活発に働きかけて訴え、民主党という連衡組織をまとめ、1828年の選挙ではアダムズを破った。ニューヨーク州政界の著名指導者であるマーティン・ヴァン・ビューレンがジャクソンの重要な助っ人となり、大型州のバージニア州ペンシルベニア州と共に選挙人票をもたらした。その報酬は国務長官への指名であり、さらに後にはジャクソン政権の後継者として副大統領候補への指名と当選だった。民主共和党のアダムズとクレイの派閥は国民共和党と呼ばれるようになったが、アダムズが党に対する忠実な党員と自らを考えることは無かった[6]アンドリュー・ジャクソン
ジャクソン: 銀行戦争と猟官制度

ジャクソンは自分のことを改革者だと考えていたが、実際には共和主義の昔ながらの理想にしがみつき、特別な利益のための特別な恩恵となるもの全てに激しく反対した。大統領になってからのジャクソンは決闘を行わなかったが、以前に政敵を撃ったことがあり、政界という戦場での敵を打ち倒そうと決めていた。第二次政党制は、ジャクソンが第二合衆国銀行を消滅させることに決めたのが主要な原因で起こった[7]。この銀行はフィラデルフィアを本部に、全国の主要都市に支店を構えており、連邦政府が認証し、中央銀行(1世紀後の連邦準備制度に類似)のように運営されていた。地方の銀行家や政治家は、声高く不満を言うニコラス・ビドル第二合衆国銀行頭取によって行使される統制に悩まされていた。ジャクソンは如何なる銀行も好まなかった。ジャクソンにとって紙幣は受け入れ難いものであり、金と銀の正金だけが流通されるべきものと考えていた。第二合衆国銀行問題について、主役であるヘンリー・クレイとの超人的な戦いの後で、ジャクソンは遂にビドルの銀行を潰した[3]

ジャクソンは銀行制度に対する攻撃を続けた。1836年の「正金流通」で銀行が発行する紙幣を拒否し(このとき国有地を買うときには使えなかった)、金貨と銀貨に固執した。事業家や銀行家の大半(全てではない)がホイッグ党に乗り換え、商業都市や工業都市はホイッグ党の強固な地盤になった。一方ジャクソンは、銀行家や金融に不信を抱く自作農や日雇い労働者に人気があった[7]

ジャクソンは「猟官制度」と呼ばれた連邦政府の互恵制度を体系的に利用した。過去の支持者に報いるだけでなく、地方や州の政治家が自分の仲間に加われば将来の職を約束した。伝記作者のシレットが説明しているように、ジャクソンが大統領になったとき、「共和主義信条の指導的原理」と宣言して役職のローテーション理論を導入した[8]


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