第二尚氏
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尚氏(第二尚氏)
左三巴
本姓尚氏
伝承・天孫氏
伝承・清和源氏舜天王統・義本末裔)[1]
家祖尚円王
種別琉球王室
日本華族侯爵
出身地琉球王国伊是名島
主な根拠地琉球王国
東京都
沖縄県
著名な人物尚円王
尚真王
尚泰王
支流、分家御殿 (沖縄)
殿内
廃藩置県後(華族男爵
凡例 / Category:日本の氏族

第二尚氏(だいにしょうし)は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年成化6年)から1879年光緒5年)までの410年間、沖縄琉球王国を統治した王家およびその姓の通称。琉球最後の王朝。正式には尚氏だが、第一尚氏と区別するため、一般には第二尚氏と呼ばれる。初代・尚円王から最後の尚泰王まで19代にわたって琉球国王として続き、尚泰の代に琉球藩王となったのを経て廃藩後日本華族侯爵家に列した[2]
歴史
琉球国王になるまでの動向第二尚氏王統始祖・尚円王

第二尚氏の始祖である尚円は、元の名を金丸といい、伊是名島の百姓の出身と伝わるが出自の詳細は不明である[3]

金丸は各地を転々としたが、やがて第一尚氏2代国王尚巴志の七男だった越来王子(後の第一尚氏6代国王尚泰久)に仕えるようになった[3]1454年志魯・布里の乱後に越来王子が尚泰久王として即位したことで側近だった金丸も対外交易の長官である御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)に出世した[3]

1460年に尚泰久が崩御し尚徳が即位したことで一時失脚したが、1469年の尚徳崩御時にクーデタを起こして第一尚氏を追って王位につき、尚円と号して新王朝(第二尚氏)を興した[3][4]
琉球国王として

第二尚氏の初代国王となった尚円(在位1470年-1476年)は、1472年の皇帝憲宗が派遣した使者官栄より冊封を受けた[4]

第3代国王尚真(在位1477年‐1526年)は、六色の?冠制度や[5]、大名・士・百姓の三階級の身分制度を整えるとともに[6]16世紀前期の頃に地方の按司らを首里に集居せしめることで中央集権体制を確立して琉球列島を統一した[4][7]。また中国日本東南アジアと広く交易して王朝の全盛期を築いた[7]

第7代尚寧(在位1564年-1620年)の代の1609年には薩摩藩島津氏徳川家康の承諾のもと約3000の兵を送って琉球侵攻を開始[8]。敗戦した琉球は薩摩藩の支配下に置かれた[9]。薩摩軍の捕虜にされた尚寧は江戸に連行されて駿府の徳川家康や江戸の徳川秀忠に謁見させられてから帰国。この一連の参府は琉球王国が事実上幕藩体制に組み込まれたことを意味し、幕府によるキリスト教禁教や鎖国の命令の効果は琉球にも及んでいた[10]

島津と家康の琉球侵略の狙いは琉球の明への貿易を直接支配することにあったが、対明貿易は宗主国明に属国琉球が進貢するという形式をとっており、明はそれ以外の形式の貿易は認めていなかったので、薩摩藩は琉球を実質的に支配しつつもその実態を中国に隠して琉球王国を形式的に存続させるとともに進貢貿易の維持・拡大を図った[11]。そのため中国から冊封使が琉球に来る際には琉球に駐留する薩摩藩士たちは姿を隠した[12]

1644年に明は滅亡したが、1663年にから初めての冊封使張学礼が送られてきて冊封を受けた[13]

最後の国王尚泰(在位1848年-1872年)の代の19世紀半ば以降になると欧米列強諸国の世界進出の波が東アジアにも押し寄せた[14]。1854年にはアメリカ合衆国ペリー艦隊が江戸湾に入港して徳川幕府を武威で屈服せしめて不平等条約日米和親条約を結ばせ、続いて琉球の那覇に入港して琉球王国にも不平等条約琉米修好条約を締結させた[15]。その後他の西洋列強諸国からも不平等条約を迫られて結ばされた[16]

日本では慶応3年(1867年)から明治元年(1868年)にかけての明治維新により徳川幕府は滅亡。王政復古とともに成立した日本の新政府は、明治2年(1869年)6月に版籍奉還を実施したが、琉球では駐在薩摩藩士たちの役職名が変わったぐらいで相変わらず薩摩藩の支配下に置かれていた。しかし明治4年(1871年)7月の廃藩置県で薩摩藩は解体されて鹿児島県となり、その統治者も島津氏ではなく中央から派遣されてきた他県人の役人となった。日本に併合されることを恐れていた琉球政府は、これまでの薩摩藩との関係を鹿児島県との間でも維持したいこと、また清との冊封関係も維持したい願いを出したが、いずれも日本政府の近代化政策の上で許されないことであった[17]
琉球藩王として最後の琉球国王・藩王の尚泰

明治5年(1872年)7月に琉球政府は維新成就のお祝いを日本政府に述べるため伊江王子を正使とする維新慶賀使を日本に送った。使節団は9月14日に東京で明治天皇の謁見を賜り、尚泰を琉球藩王に叙し華族に列するとのを授けられた[18]。さらに20日には藩内融通のための新貨幣・紙幣3万円、29日には東京府下飯田町[要曖昧さ回避]餅木坂の邸宅が尚泰に下賜された[18]

これまでは一応外国という扱いだった琉球はこの時に正式に日本の領土として編入された[19]。前年の廃藩置県で日本全国の藩が解体された中で琉球藩という新しい藩が作られて一つだけ残される形となったが[18]、そのトップの称号はこれまでの「藩主」や「藩知事」ではなく「藩王」という新称号であり、他の華族たちとは別格扱いされていた[19]

明治4年には台湾南東岸に漂流した琉球八重山島民54人が台湾原住民によって虐殺される事件が起き、生存者12人が明治5年6月に琉球に帰国し、彼らから虐殺事件の報告を受けた鹿児島県はただちに使者を上京させて政府に報告[18]。政府では鹿児島県士族・軍人らを中心に征台論が強まった[18]


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