第二姓
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この項目では、血縁集団の姓(せい)について説明しています。古代日本オオキミ天皇から各氏族に与えられて職能や序列を表した称号については「カバネ」をご覧ください。
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姓(せい)は、主に東アジア漢字文化圏・儒教圏ので用いられる血縁集団の名称[1][2]

その範囲は地域時代によって変動し、名字といった他の血縁集団名と様々な階層関係にあった。近代以降、ヨーロッパなどの他の文化圏の血縁集団名、家系名の訳語としても用いられている。
日本や儒教圏における姓
日本の姓の歴史

姓は、名字・苗字(みょうじ)や(うじ)ともいい(姓と氏・名字という語は本来は別々の意味を有した。しかし、明治時代以降は、「氏」として戸籍に記載されて管理されている。現代ではほぼ同一の言葉として使われている。詳細は「」を参照
江戸時代以前

明治時代まで武家や貴族以外には姓(苗字)がなかったとされているが、誤りである[3][4]。農民の名字の最古として、室町時代の資料もある[4]。正確には公的な場で名乗ること(苗字公称)が、武士の特権とされていた。近世の日本の農民は基本的に苗字を持っていたものの、私的な場以外で名乗ることが禁止(苗字公称の禁止)されていたために使用するのは武士の関わらない仲間同士の場面(私的な場)に限られていた。小川寺小平市)の梵鐘の寄進者名が最古の庶民層の名前の資料として残っている。この梵鐘は1686年貞享3年)に鋳造され、小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進したものであるが、鐘の表面には寄進者名の農民らの苗字がすべて付されている。公的な場で苗字を名乗ることが禁じられていたため、武士以外の苗字が記録に残されることが少なくなっているだけで、武士以外も苗字(姓)自体は私的に持っていた[5]。例として、現在の長野市の農家出身の俳人の小林一茶は、名字は出生時から「小林」である[4]

江戸時代1846年弘化3年)時点で氷川神社都中野区江古田)の造営奉納取立帳にも全村軒の戸主全員の「苗字」が記載されている。江戸から離れた現在の長野県松本平の南安曇郡の33村でも、2345人中16人という村民らの約0.68%を除いた「苗字」が記載されている[3]

庶民の公称許可の姓は、それ自体が公的存在であり、幕藩封建体制下の家格・由緒を示すものであった。したがって公称許可の姓は公的存在であったので、それを公的に名乗れるのは当主を中心とする男子であった。公的活動が認められていなかった女性には、姓は無縁の存在であった。この場合の妻の姓は夫婦別姓であった[6]
明治時代

明治維新後に、新政府は平民にも届け出を提出したら苗字を公称することを許可した。1870年(明治3年)9月19日に太政官布告第608号「平民苗字許可令」が公布された(「苗字の日」は、この日に由来している)。苗字届け出が思うように出されなかった(国立公文書館は平民らは税金を多くとられると懸念したためとの説を紹介している)ため、1875年(明治8年)2月13日に「苗字必称義務令」という太政官布告で全国民への「氏(苗字)」の使用が義務化された。内容については、「これからは必ず苗字を名乗りなさい。祖先以来の苗字が分からない者は、新たに苗字をつけなさい」というものであった[7]

1876年(明治9年)3月17日に太政官指令で武家で一般的であった「夫婦別姓(妻に実家の氏を名乗らせること)」を国民すべてに適用することとした。政府がとった妻に実家の姓を名乗らせることについては多くの地方から問題があるとする伺いが出された。明治20年代の例として、山口県から「民事上の契約書などにおいて生家の氏を称し、あるいは夫家の氏を称するなどまちまちで民事上の紛議を醸生する恐れがある[8]」、宮城県から「嫁家(夫家)の氏を称するのは地方一般の慣行である[9]」、東京府から「民間普通の慣例によれば婦は夫の氏を称しその生家の氏を称する者は極めて僅かである[10]」がある。

法務省によると、太政官指令にもかかわらず、妻が夫の氏を称することが慣習化していた[11]。明治23年の女学雑誌にも「凡そ夫あるの婦人は、多く其夫の家の姓を用い居る」と妻が夫の家の姓を便宜の上で称することが一般化していたと記されている[12]

その後、1898年(明治31年)に旧民法で「夫婦同姓」とされた。明治政府が全国民への夫婦別姓制度から変更の動きをした際に、「条約改正の実現」という目的から欧米を模倣し「夫婦同姓」を強制しようとした政府の動きに対しては儒教的道徳を重んじ、「別姓」を伝統としてきた旧武士層や保守層から多くの反発が生じた[13]
儒教圏における夫婦別姓・子女の姓における父姓優先主義

どの国でも結婚、夫婦の姓には歴史と宗教が大きく関わっており、共通している歴史は男尊女卑で家父長制であったことで、 宗教は欧米ではキリスト教が、中国、韓国では儒教が大きく影響している。 女性は夫の支配下に入ると考えられていたため、キリスト教圏の国では女性が結婚と同時に夫の姓を名乗っていた。儒教圏における夫婦別姓は、妻は子を産むための「外の者」であるとの思想に基づいた夫婦別姓であった[1]
中国

福山大学孔子学院によると、中国では女性の社会的地位が低かったので、一部の人は苗字だけで、名はなかった。結婚すると、自分の苗字を夫の苗字の後ろに付け加えた。例として、趙家に嫁入りした「劉家の娘」は「趙劉氏」と呼ばれていた[14]。中国大陸では数千年も子供は夫の姓を名乗ることが文化や伝統となっており、父親の苗字を受け継ぐ典型的な男権社会である[15][2]。中華人民共和国でも夫婦別姓制度の下で子供は夫の姓を名乗ることが習慣化していたが、一人っ子政策終了後の2018年時点には中国の上海市における新生児数約9万人のうち夫姓91.2%に対して、8.8%であるものの妻姓を名乗る子供も現れるようになっている[16]
韓国

韓国では、2008年から子供の姓に対する夫婦の合意があり、婚姻届提出時で「子どもの姓・本貫を母親の姓・本貫にする話合いをしたか」との項目に「はい」と記載すると、子女の姓を夫の姓以外も選べるようになったが、韓国は父姓優先主義の国のままであり圧倒的に少ない[17][18][19]。子女の姓を妻姓に変えた夫婦によると、2021年時点でも子女を母親の姓にする人はほとんどいない。夫婦の周囲は「母親の姓を継がせることができるの?」という反応が最多だった[19]
姓に用いる文字
日本

日本人の姓は、基本的に漢字である。ただし「一ノ瀬」などのように一部に片仮名が含まれているもの、「反り目」のように平仮名が含まれているもの、「佐々木」の「」のように記号が含まれているものもある[20]

漢字文化圏以外から日本に移り住み、日本国籍を取得した者の中には、元の姓の読みを当て字にする(有道出人等)、片仮名で表記する(ハーフナー・マイク等)など本人の意向に沿った姓を選択できるため、新しい苗字が出来ることもあるが、使える文字は戸籍統一文字に限定されている。

2016年時点で日本には数多くの名字が存在するが、上位5,000ほどの名字で人口の80%以上は網羅されるとされている[21]
主な姓
日本

日本国内に多い姓(上位30位、2023年4月時点[22])順位名字(読み)人数

   (人)[22]  備考
1佐藤(サトウ、サドウ)およそ 184.2万北海道東北地方をはじめとする東日本(特に秋田県)や東九州に多い名字で、近畿圏では大阪府兵庫県を除きそれほど多くはない。


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