第2バチカン公会議(だい2バチカンこうかいぎ、ラテン語: Concilium Vaticanum Secundum、1962年-1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。
この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント(英語版))をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。 1869年の第1バチカン公会議では、カトリック教会がフランス革命によって生まれた近代革命世界を否定するというスタンスがとられた。 1923年5月23日、教皇ピオ11世は枢機卿会議で、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために公会議を召集することは適切か否かを枢機卿たちに問うた。このピオ11世の質問に対し、枢機卿たちはほぼ満場一致で公会議に反対した。特にビヨ枢機卿は、司教たちの深い見解の違いがあること、意見がまとまらない危険があること、教会に革命を起こそうとしている近代主義者たちによって公会議が操作される危険があること、伝統的なやり方よりも、民主的な慣行に適応する論争と宣伝活動が導入される危険があることを指摘した[1]。 しかし第1次世界大戦後の世界で、もはやカトリック教会だけが古色蒼然とした形をたもっていることは出来なかった。特に司牧の第一線で働く聖職者、宣教者、信徒たちの間で教会の現代化の必要性は痛感されていた。 1959年1月25日、教皇ヨハネ23世はサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂附属のベネディクト派修道院をふらりと訪れ、17人の枢機卿の前で突然、公会議を召集することを告げた。この教皇自身が下した決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた[2]」。 この突然の公会議開催の発表は大きい混乱を引き起こした[3]。多くの枢機卿らは、司教たちがマスメディアの圧力を受ける危険を指摘して、公会議招集を止めようと促した。その理由は、ヨハネ23世は、以前ブルガリアの教皇使節(在位:1925年-1934年)を務めた当時から「東方帰一教会」が正教徒らにしている帰一宣教活動に反対しており[4]、新しいエキュメニズムを考えていたからである。 神学者の間には、カール・ラーナーやイヴ・コンガールなどのように「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」ことを目指した一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー(後の教皇ベネディクト16世)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代教会の信仰にこそ現代教会の活力の源泉が見出されるはずだ」とする一団という2つの大きなグループが生まれていた。 また、第1バチカン公会議で本来話し合われるはずであった教会論の議論(これらは普仏戦争の勃発によって中断を余儀なくされた)を行うことで教会のアイデンティティーを再確認することの大切さも十分認識されていた。
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}が望まれています。 (2022年3月)
公会議の経緯
開会まで
ピオ11世
ピオ12世) とオッタヴィアーニ枢機卿は、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた。そこでピオ12世は65人の司教たちに打診したが、公会議はむしろ危険である、教会を窮地に落とすと判断し、公会議開催の考えを放棄した。
ヨハネ23世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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