第三波フェミニズム
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レベッカ・ウォーカー(2003年撮影)。「第三波」(third wave)という言葉はウォーカーの「第三の波になる」(Becoming the Third Wave)から来ているとされる[1]

第三波フェミニズム(Third-wave feminism)とは第二波を継承して1990年代初頭にアメリカで始まったフェミニズム運動である[2]。2020年代には第四波とされる運動が始まっている[3][4]。第三波のフェミニストは1960年代から70年代のアメリカに生まれたジェネレーションX世代であり、第二波のフェミニストたちが獲得してきた社会的権利を土台として個人主義多文化主義を標榜しながら、個々の人がフェミニストであることの意味を再定義しようとしている[2][5][6]。第三の波において、フェミニズムは新たな潮流と理論の出現をみた。例えば、インターセクショナリティセックス・ポジティヴィティ、ベジタリアン・エコフェミニズム(英語版)、トランスフェミニズム(英語版)、ポストモダン・フェミニズム(英語版)である。フェミニストで学者のエリザベス・エヴァンスによれば「第三波フェミニズムを構成しているものが何かを問うときに混乱が生じるのは、この運動が複数の角度から特徴づけられるからである」[7]

第三波フェミニズムの起源は、ライオット・ガールに遡ることができる。ライオット・ガールとは1990年代初頭にアメリカ合衆国ワシントン州オリンピアワシントンD.C.で始まった[注釈 1]、フェミニズムとパンクミュージックを組み合わせたサブカルチャー文化である。もう一つのきっかけとして、1991年に全米でテレビ放映されたアニタ・ヒルの証言を挙げることができる。彼女は全員が白人男性である上院司法委員会において、アメリカ連邦最高裁判事の判事の候補となり後に正式に就任するクラレンス・トーマスからセクシャル・ハラスメントを受けていたことを告発したのである。

「第三波」という言葉の誕生は、アメリカの作家レベッカ・ウォーカー(英語版)の文章がきっかけだとされている。彼女は最高裁判事にトーマスが指名されたことに反発して、「ミズ(英語版)」誌に「第三の波になる」(1992年)という記事を寄稿した[1][6]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}だから私は全ての女性に(特に私と同世代の女性に)対する嘆願書としてこの文章を書いている。トーマスが判事として承認されたことで私が気づかされたのと同じ形で、この戦いの終わりがはるか遠いところにあるということをあなた達が思い出すように。1人の女性が体験したことを訴え、それが退けられたことに対して、あなた達が怒りを覚えるように。その激情を政治的な力に変えてほしい。私達のために仕事をしないうちは票を投じるのはやめよう。自分の身体と生命を私達こそが管理する自由を最優先にしないのなら、セックスをすることも、パンをちぎって口に運ぶことも、育みそだてることもやめよう。私はポストフェミニズム(英語版)のフェミニストではない。私は第三の波だ。[9][1]

ウォーカーは第三波フェミニズムが単なるカウンターに留まることなく、社会運動として定着することを目指していた。フェミニズムの目標を達成するためになすべき仕事はまだまだあったからだ。インターセクショナリティという用語を導入したのはキンバリー・クレンショーである。1989年の彼女の論文で初めて使われたこの言葉は、第三波フェミニズムの時代に概念として発展をみた[10]。1990年代後半から2000年代前半にはフェミニストがインターネット上でも活動を始めるようになり、ブログやオンラインマガジンなどのメディアにおいてグローバルな読者を獲得した。その目標はさらに大きくなり、ジェンダーロールのステレオタイプを克服することを重視しながら、多様な人種および文化的なアイデンテティーを持った女性を包摂するためフェミニズムの幅を広げている[11][12]
前史

第二波のフェミニストが獲得してきた権利や制度は第三波フェミニズムの基礎をなしている。男女の教育機会の平等を定めたタイトル・ナイン(英語版)や女性への虐待やレイプについて公の場で議論すること、避妊をはじめとした生殖に関する各種制度・機関へのアクセス(中絶の合法化もそれにあたる)、職場における女性へのセクシャル・ハラスメント防止対策の設置や強化、母子が家庭内暴力から逃れるためのシェルターの設置、児童保護制度、若い女性への奨学金設立、女性学などの仕組みは、いずれも第二波のフェミニストが目標とし、獲得してきたものだ。しかし、徐々に第二波フェミニズムの目標が想定する「均一な女性像」に沿わない人が排除されていることが内部で指摘され始めた。

特に第二波を代表する有色人種のフェミニストとして、グロリア・アンサルドゥーア(英語版)、ベル・フックス、シェリー・モラガ(英語版)、オードリー・ロード、マキシーン・ホン・キングストン(英語版)らがおり、それ以外にも多くの有色人種のフェミニストたちが、それまでのフェミニズムの思想において人種について考察する場が作られてこなかったことを批判した[13][14]。グロリア・アンサルドゥーアとシェリー・モラガは1981年に「This Bridge Called My Back」というアンソロジー集を出版しているが、この本はアカシャ・ハリとパトリシア・ベル=スコット、バーバラ・スミスが編集した「All the Women Are White, All the Blacks Are Men, But Some of Us Are Brave」と並んで、第二波フェミニズムが主に白人女性の問題に関心を持ってきたことを批判していることで有名である。この、人種とジェンダーの交差性については、その後著しく注目が集まることとなった。

1970年代後半から1980年代後半には、第二波フェミニズムのラディカルな思想とそのセクシュアリティ観への反発としてフェミニスト・セックス戦争が起こった。こうした議論は「セックスの肯定」(sex-positivity)という観点からの反論であり、第三の波の到来を告げるものでもあった[15]

もうひとつ、第三波の決定的な出発点となったのが、1990年に出版されたジュディス・バトラーの著書『ジェンダー・トラブル ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』である。現代フェミニスト理論の最重要文献の一冊となった同書で、バトラーは均質化された「女性」の概念に異を唱えた。従来の概念は社会におけるジェンダーの規範を強め、排除的に働くだけでなく、フェミニズム自体にもそうした規範と排除をもたらすからである。排除されるのは人種化された女性や労働者階級の女性にかぎらない。男性的な女性、レズビアン、ノンバイナリーの人たちもフェミニズムから排除されてしまう[16]。バトラーは同書のなかで、ジェンダーをパフォーマティヴィティと捉える理論のあらましを描きだした。ジェンダーは言語的・非言語的な一連の行為の反復によって機能するものであり、そうした反復こそが一貫したジェンダーアイデンティティという「幻想」を生むわけだが、その反復の元となるような本質的な性質はどこにも存在しないという考え方である[17]。またバトラーは「自然な」性別(セックス)というものはなく、我々がそう考えるものにはすでに文化が介在しており、したがってセックスはつねにジェンダーと不可分であると説いた[18]。バトラーのこうした見方はクィア理論の基盤となり、第三波フェミニズムの理論と実践を育む上でも大きな役割を果たした[19]
初期
ライオット・ガール詳細は「ライオット・ガール」を参照ビキニ・キルのリードヴォーカル、キャスリーン・ハンナ(1991年)

1990年代初頭にワシントン州オリンピアで出現した、フェミニズムとパンクが融合したサブカルチャーであるライオット・ガールは、第三波フェミニズムの誕生を決定づけた[20]。ライオット・ガール(riot grrrl)の三つのRは、ガールという言葉を女性のために取り戻すという意思の現れである[21]。アリソン・ピープマイヤーによれば、ライオット・ガールと、サラ・ダイアーが発行していたジン(英語版)[1]である「Action Girl Newsletter」には、第三波フェミニズムを特徴づける「grrrl zinesのスタイルやレトリック、ヴィジュアル」があからさまに見てとれ[20]、そこで重視されているのは、思春期の少女の視線で歌うことである[22]


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