第三次ポエニ戦争
ポエニ戦争中
カルタゴの攻略を描いたジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの絵画(1725年 - 1729年)
時紀元前149年 - 紀元前146年
場所カルタゴ(現代のチュニジア)
発端カルタゴのヌミディアに対する条約違反の戦争
結果
ローマの勝利
カルタゴの滅亡
カルタゴ市街が壊滅
第三次ポエニ戦争(だいさんじポエニせんそう、英: Third Punic War)は、古代の地中海地域における有力な国家であったカルタゴと共和政ローマが戦った三度にわたるポエニ戦争の中で最後となった戦争である。戦争はローマの勝利に終わり、カルタゴとその国家は完全に滅亡した。
紀元前201年にローマの勝利で第二次ポエニ戦争が終結し、戦争後に結ばれた講和条約でカルタゴはローマの許可なく戦争を起こすことが禁じられた。ローマの同盟国であったヌミディアのマシニッサ王はこの状況を利用してカルタゴの領土を公然と襲撃し、占領する行為を繰り返した。これに耐えかねたカルタゴは紀元前151年にローマとの条約を無視して将軍のハスドルバル(英語版)が率いる軍隊をヌミディアに向けて派遣した。しかし、この軍事作戦はオロスコパの戦いでカルタゴ軍が完敗するという結果に終わり、ローマはこの不正な軍事行動を口実に懲罰的な遠征の準備を始めた。
その後、紀元前149年にローマの大軍が北アフリカのウティカに上陸した。カルタゴは使者をウティカに派遣したが、ローマ側の要求に応じてすべての兵器を引き渡し、艦船を焼却した一方で、都市を放棄する最後の要求は拒否した。これに対しローマはカルタゴを攻略するために軍を派遣した。紀元前149年の間、ローマ軍の作戦は度重なる失敗に終わったが、ローマ軍の将校の一人であるスキピオ・アエミリアヌスの活躍によって大きな損害は食い止められた。紀元前148年には新しい執政官が派遣されたが、前年と同様に成果は上がらなかった。紀元前147年の執政官を決める選挙では、就任可能な最低年齢に達していなかったスキピオに対するローマ人の支持が非常に高かったため、元老院はその年におけるすべての公職の年齢制限を撤廃した。スキピオは執政官に選出され、アフリカにおけるローマ軍の総司令官となった。
スキピオはカルタゴへの包囲網を強化し、海側からの都市への補給を遮断するために巨大な堤防を建設した。これに対してカルタゴは艦隊を再建して出撃したが、撤退時に多くの船を堤防に阻まれて失う結果に終わった。その後、スキピオは大規模な部隊を率いて近隣のネフェリスに陣地を構えていたカルタゴの野戦軍を撃破し、ローマ軍に抵抗していたほとんどのカルタゴの後背地の要塞を降伏させた。紀元前146年の春にローマ軍はカルタゴへの総攻撃を開始し、6日間かけて抵抗者を一掃した。都市は破壊され、50,000人に及んだカルタゴ人の捕虜は、奴隷として売り払われた。
カルタゴの旧領土はウティカを州都とするローマのアフリカ属州として再編された。廃墟となったカルタゴがユリウス・カエサルとオクタウィアヌスの下でローマの都市として再建されるのは1世紀後のことである。
一次史料ポリュビオス.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}カルタゴの滅亡は災厄としては最悪のものと言えるだろう。だが、ギリシアの受けた仕打ちもそれに勝るとも劣らない。カルタゴは自分たちの大義を多少なりとも後世認められるだろうが、ギリシアに関してはその口実すら存在しない。完全に滅ぼされたカルタゴは将来にわたって苦しむことはないが、ギリシアは代々その不幸を語り継がねばならないのだ。—ポリュビオス、『歴史』38.1
紀元前167年に人質としてローマに送られたギリシア人の歴史家であるポリュビオス(紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作がポエニ戦争に関する最も多くの情報を伝える主要な史料となっている[1]。ポリュビオスは今日では失われてしまった戦術書などを残しているが[2]、その著作の中では紀元前146年以降の時期に著された『歴史』が最もよく知られている[3][4]。また、第三次ポエニ戦争では後援者であり友人でもあったローマの将軍のスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)に同行して北アフリカを訪れている[5][6]。しかしながら、このようなスキピオとの親しい関係は、通常は信頼性の高いポリュビオスの記録にスキピオの行動を好意的に記述させた要因となっている[7][8][9]。さらに、『歴史』の第三次ポエニ戦争に関する記述は今日では多くの部分が失われている[7][10]。
ポリュビオスからかなりの情報を参照しているローマの年代記作者のティトゥス・リウィウスによる説明はポエニ戦争を研究する現代の歴史家によく利用されているが[11]、紀元前167年以降の出来事に関する記述は「梗概」の形式でしか残されていない[12][13]。その他の今日ではほとんど失われてしまった第三次ポエニ戦争やその参加者に関する古代の記録には、プルタルコス、カッシウス・ディオ、シケリアのディオドロスなどによるものがある[14][15]。現代の歴史家は同様に2世紀のギリシア人の歴史家であるアッピアノスによる説明も利用している[16][17]。歴史家のベルナール・ミネオは、アッピアノスの記録を「この戦争に関する唯一の完全かつ連続した説明である」と述べている[14]。