第三次ハリコフ攻防戦
第二次世界大戦東部戦線中
1943年1月から3月にかけての東部戦線南部のハリコフにおける戦線の状況。
時1943年2月19日 ? 3月15日
場所ウクライナ国家弁務官区(ナチス・ドイツ占領下)ハリコフ
結果ドイツ軍の勝利
衝突した勢力
ソビエト連邦 ドイツ国
指揮官
フィリップ・ゴリコフ
ニコライ・ヴァトゥーチン
コンスタンチン・ロコソフスキー
マルキアン・ポポフ
ヴァシリー・コプツォフ(英語版) † エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
パウル・ハウサー
ヘルマン・ホト
エバーハルト・フォン・マッケンゼン
テオドール・アイケ †
戦力
346,00070,000
被害者数
戦死 45,219
戦傷 41,250戦死・戦傷・行方不明 11,500
独ソ戦
バルバロッサ作戦
ミンスク
ウーマニ
スモレンスクI
キエフ I
オデッサ
黒海
レニングラード
ハリコフ I
クリミア I
モスクワ
ロストフ
デミャンスク
ハリコフ II
ブラウ作戦
スターリングラード
フーベルトゥス作戦
ウラヌス作戦
冬の嵐作戦
ルジェフ II
イスクラ作戦
ハリコフ III
クルスク
プロホロフカ
スモレンスク II
ドニエプル川
ナルヴァ
コルスン
カメネツ=ポドリスキー
バグラチオン作戦
クールラント
クリミア II
ワルシャワ蜂起
リヴォフ=サンドミール
バルト海
ヤッシー・キシナウ
ヴィスワ・オーデル
ブダペスト
オーバーシュレージエン
東プロイセン
ケーニヒスベルク
春の目覚め作戦
ウィーン
ベルリン
プラハ
第三次ハリコフ攻防戦(だいさんじハリコフこうぼうせん)は、1943年2月19日から3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍とソ連軍の戦闘のことである。ドイツではドネツ戦役と呼ばれ、ソ連側ではドンバス・ハリコフ作戦と呼ばれている。ドイツの反撃によりハリコフとベルゴロドは再奪還された。 1943年の初め、ソ連軍がスターリングラードでドイツ第6軍を包囲し、さらにドン川へと攻勢をかけた事で[1]ドイツ軍の戦線は崩壊の危機を迎えていた[2]。1943年2月2日、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥が降伏、9万にも及ぶ将兵がソ連軍の捕虜となり第6軍は壊滅した[1][3]。スターリングラードでの枢軸軍の損害の合計は捕虜も含め、12万[4]から15万[1]にも及んだ。1942年を通してのドイツ軍は人的損害を190万人近く出し[5]、1943年の初めにドイツ軍は東部戦線において軍の定員を47万人も下回る人数しか補充できなかった[6]。バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍は3300両の戦車を保有していたが[7]、1月22日時点で東部戦線の全戦線に残っていたのはわずか495両だった[8]。これらの戦車は大半が旧式のもので、しかも東部戦線全体に分散していた[8]。ソ連軍ドン方面軍がスターリングラードでドイツ軍を撃滅した後、スタフカはヴォロネジからロストフまで進軍しドイツA軍集団を包囲する作戦を発動した[9]。
背景
ソ連軍の攻勢(1月末?2月中旬)