第三次チャタヌーガの戦い
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第三次チャタヌーガの戦い
Battle of Chattanooga
南北戦争

チャタヌーガの戦い

1863年11月23日-25日
場所テネシー州チャタヌーガ
結果北軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ユリシーズ・グラントブラクストン・ブラッグ
戦力
ミシシッピ軍管区
*実勢56,359[1]テネシー軍
44,010[1]
被害者数
5,824 (戦死 753
負傷 4,722
不明 349)[1]6,667 (戦死 361
負傷 2,160
不明・捕虜 4,146)[1]

第三次チャタヌーガの戦い(だいさんじチャタヌーガのたたかい、英:Third Battle of Chattanooga、一般的には単にチャタヌーガの戦い、英:Battle of Chattanooga、他にルックアウト山の戦い、英:Battle of Lookout Mountain、ミッショナリー・リッジの戦い、英:Battle of Missionary Ridgeという呼び方もされる)は、南北戦争下の1863年11月23日から25日に、テネシー州チャタヌーガ近くで行われた戦いである。北軍ユリシーズ・グラント少将はブラクストン・ブラッグ将軍の南軍を破ることで、テネシー州にいた最後の南軍を排除し、ディープサウス侵攻への道が開け、1864年アトランタ方面作戦に繋がった。
背景

北軍ウィリアム・ローズクランズのカンバーランド軍4万名は、チカマウガの戦いでの悲惨な敗北の後で、チャタヌーガに撤退した。南軍ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍は市を包囲して、北軍を飢えさせて降伏に追い込もうとした。市郊外での追撃はのんびりとしたものであり、北軍に守りを強化する時間を与えてしまった。ブラッグ軍はルックアウト山とミッショナリー・リッジに陣取り、どちらからも市内、テネシー川(市内を貫流していた)および北軍の供給線を見下ろせることができた。ルックアウト山に据えられた大砲が川による接近を支配し、騎兵隊がチャタヌーガに向かう輜重隊への襲撃を敢行したので、北軍は兵士達を食わせていくために他の方法を見出す必要があった。

北軍政府は敗北の可能性に警鐘を鳴らされ、援軍を派遣した。10月17日、ユリシーズ・グラント少将はミシシッピ軍事地区軍と呼ばれた西部軍指揮官職を与えられた。グラント軍はチャタヌーガに移動し、指揮官ローズクランズをジョージ・ヘンリー・トーマス少将にすげ替えた。グラントの技師長であるウィリアム・F・"ボールディ"・スミスは「クラッカー・ライン」と呼ばれる作戦を編み出し、10月27日に水陸協働でブラウンズフェリーに突然の上陸を敢行し(ブラウンズフェリーの戦いと呼ばれることもある)、トーマスのカンバーランド軍とジョセフ・フッカー少将率いる東部戦線ポトマック軍から派遣された救援軍2万名とを繋ぎ、テネシー川を開放した。これで川を使ったチャタヌーガへの物資と援軍の搬入が可能となり、グラント軍のチャンスが拡がった。これに反応したブラッグはジェイムズ・ロングストリート中将にルックアウト渓谷から北軍を追い出すように命じた。その結果としてのウォーハッチーの戦い10月28日?29日)は南北戦争の中では夜だけで戦われた数少ないものの一つとなった。南軍が撃退されクラッカー・ラインは確保された。
対戦した戦力

グラントのミシシッピ軍事地区軍はチャタヌーガでは次の部隊で編成された[2]

カンバーランド軍:ジョージ・ヘンリー・トーマス少将指揮、ゴードン・グランジャー少将の第4軍団とジョン・Mパーマー少将の第14軍団で構成

テネシー軍ウィリアム・シャーマン少将指揮、フランクリン・P・ブレア・ジュニア少将の第15軍団とジョン・E・スミス准将の第17軍団第2師団で構成

ジョセフ・フッカー少将指揮の部隊:オリバー・O・ハワード少将の第11軍団ジョン・W・ギアリー准将の第12軍団第2師団で構成。フッカーは第4、第14および第15軍団の一部も指揮した。

ブラッグのテネシー軍はチャタヌーガでは次の部隊が使えた[3]

ハーディ軍団、ウィリアム・J・ハーディ中将指揮、カーター・L・スティーブンソンとパトリック・クリバーン各少将およびジョン・K・ジャクソン(チーザム師団)とステイツ・ライト・ギスト(ウォーカー師団)各准将の師団

ブレッキンリッジ軍団、ジョン・ブレッキンリッジ少将指揮、アレクサンダー・P・スチュアート少将およびJ・パットン・アンダーソン(ヒンドマン師団)とウィリアム・B・ベイト(ブレッキンリッジ師団)各准将の師団

10月31日、ブラッグ軍は、ジェイムズ・ロングストリート中将指揮するロングストリート軍団(ラファイエット・マクローズ少将とジョン・ベル・フッド中将の師団で構成)をノックスビル近くにいる北軍アンブローズ・バーンサイド少将の軍隊に対抗するために派遣し、大きくその戦力を減らしていた。11月22日サイモン・B・バックナー少将の師団にノックスビルのロングストリート支援を命令することでブラッグ軍はさらにその勢力を減らした。
オーチャード・ノブでの戦闘ルックアウト山の戦い

11月半ばにウィリアム・シャーマン少将がテネシー軍2万名を率いて到着したとき、グラントは攻勢を始めた。その最初の動きは、11月23日に当時のチャタヌーガ市域から直ぐ外のウッド砦にあった作戦本部から、オーチャード・ノブとそれに隣接するインディアンヒルおよびブラッシー・ノブにあった南軍の前進基地に対する攻撃命令だった(歴史家の中にはオーチャード・ノブの戦いと呼ぶ者もいるが、実際には小さな戦闘だった)。オーチャード・ノブはそこから次の2日間の戦闘を方向付ける前進し中央を占める地点にあった。この同じ日に信じられないようなことであるが、南北戦争を通じて両軍の中で最も実行力有る師団指揮官と当時の同僚達多くが見なしていたパトリック・R・クリバーン少将の師団に、ブラッグはバックナーの後を追ってノックスビルに向かうよう命じた。
ルックアウト山の戦い

北軍の11月24日の作戦は2方向からの攻撃だった。フッカー隊はルックアウト山の南軍左翼に、シャーマン隊はミッショナリー・リッジの北縁にいる右翼への攻撃を行うこととされた。フッカー隊は3個師団、第12軍団のジョン・W・ギアリー師団、第14軍団のチャールズ・クラフト師団および第15軍団のピーター・J・オスターハウス師団だった。クラフトとオスターハウスの前進はルックアウト・クリークで行き詰まったが、ギアリー隊はさらに南で抵抗無く川を渉り、山と川の間の谷間が確保されていないことを発見した。北軍はベンジャミン・チーザム師団(一時的にジョン・K・ジャクソンが指揮)のエドワード・クレイ・ウォルトホール旅団の抵抗を受けたが、ギアリーはルックアウト山の麓を北東に回り、ウォルトホールの勢力的に遙かに劣る部隊を山の北縁真下にあるクラベンス・ハウスまで押し返した[4]。山の頂上にいた南軍ジョン・C・ブラウンの旅団は崖下で行われている戦闘に対しては手の撃ちようが無いことが分かった。ギアリーの成功で他の2個師団も川を渉ることができ、その前面にいる南軍の散兵を飲み込んでいった。午後1時頃に南軍ジョン・C・ムーアの旅団がギアリー隊とクラフト師団のウォルター・C・ホイッタカー旅団との戦闘に巻き込まれた[5]。ムーア隊は押し返され、間もなくエドマンド・ペタス旅団が合流した。午後3時頃までに、厚い霧が山を覆った。両軍は午後の残りを霧の中でめくら滅法撃ち続けたが、当たる者はほとんどいなかった。この戦闘中、フッカーはグラントに一連の「泣き言か空威張り」の伝言を送り続けたが、「十中八九、敵は今夜撤退するだろう」と予言したのは正に当たった[6]。ブラッグは戦闘が負けていることを認識し、その陣地を放棄する命令を出した。夜半に霧が晴れ、月食の下で、カーター・L・スティーブンソンとチーザムの師団はチャタヌーガ・クリークの対岸に撤退し、その後の橋を焼いた。


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