第三次ソロモン海戦
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第三次ソロモン海戦
太平洋戦争

1942年11月12日ガダルカナル島近海で撃墜され、黒煙を上げる日本機。

1942年11月12日1942年11月15日
場所ガダルカナル島近海, ソロモン諸島
結果連合軍の戦略的勝利[1][2]

衝突した勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
オーストラリア
指揮官
山本五十六
阿部弘毅
近藤信竹
田中頼三
角田覚治
三川軍一 ダニエル・J・キャラハン  
ノーマン・スコット  
ウィリス・A・リー
ウィリアム・ハルゼー・ジュニア
戦力
空母1
戦艦2
巡洋艦8
駆逐艦16空母1
戦艦2
巡洋艦5
駆逐艦12
被害者数
戦艦2沈没
巡洋艦1沈没
駆逐艦3沈没
輸送船11沈没
航空機64
戦死1,900[3]巡洋艦2沈没
駆逐艦7沈没
航空機36
戦死1,732[4]

第三次ソロモン海戦(だいさんじソロモンかいせん)は、1942年11月12日 - 15日にソロモン海で行われた日本海軍アメリカ海軍オーストラリア海軍との間で行われた海戦
経緯「ガダルカナル島の戦い」も参照

1942年8月、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動し、ガダルカナル島フロリダ諸島を占領した。日本軍はガダルカナル島の戦力を増強して米海兵隊から占領地を奪還しようと試みたが、その意図は同島のヘンダーソン飛行場から発進したアメリカ軍機によって輸送船団が撃退されて阻止される(第二次ソロモン海戦)。日本軍は、アメリカ軍機に襲撃されると大きな損害を出す輸送船による兵力増強を諦めた。代替手段として、日本海軍は駆逐艦を輸送船のかわりに用いる鼠輸送(連合軍側名称「トーキョーエクスプレス」)で補給を続けたが、敵主力艦を撃沈するために建造された艦隊型駆逐艦にとって不向きの任務だったことは否めない[5]。また駆逐艦の輸送力は輸送船に比べてあまりにも小さく、その補給効果は限定的だった[6]。さらにアメリカ海軍の迎撃やアメリカ軍魚雷艇の活動によって駆逐艦の損害も増えた[7]

日本海軍は制空権掌握の障害となるヘンダーソン飛行場に対し4回の艦砲射撃をおこなっていた。特に1942年10月13日深夜から翌14日にかけて金剛型戦艦2隻(金剛榛名)が砲撃を行い、一時的に飛行場を使用不能とした(ヘンダーソン基地艦砲射撃[8]。それでも飛行場の機能を完全に奪うには至らず、日に日に機能の修繕及び防衛の増強が行なわれていた。海上からの砲撃と並行して、ニューブリテン島のラバウル基地から日本軍ラバウル航空隊第十一航空艦隊第二五一海軍航空隊等)、ニューギニア島のブナ基地から第二〇四航空隊や空母隼鷹、飛鷹の航空隊がガダルカナル島上空に出撃して飛行場爆撃やアメリカ軍戦闘機駆逐を試みたが失敗し[9]、アメリカ軍の航空戦力は健在だった。戦争初期、空中格闘戦能力の高さで連合軍機を圧倒した零式艦上戦闘機(以下、零戦)も、制空戦闘では「往路2時間、ガダルカナル上空での空中戦(滞在時間約30分以下)、帰路2時間」[10]、零戦より速度のでない一式陸上攻撃機爆撃隊を掩護する任務では「片道4時間、直掩戦闘、帰路4時間、合計8時間」[11]という長時間の任務となり、損害を増やした。

日本軍が航空戦に苦戦する一方、アメリカ軍はエスピリトゥサント島を基地とするB-17大型爆撃機の活動とアメリカ軍潜水艦の遊弋(ゆうよく)によって[12]、日本軍の行動力を著しく妨げていた[13]。ガダルカナル島の日本陸軍に補給物資を届けることがますます難しくなり[14]、日本軍にとってガダルカナル島の戦局は悪化の一途をたどった。そこで日本海軍(連合艦隊)は、大口径砲を装備した戦艦による艦砲射撃をふたたび実施して飛行場を破壊、同時に陸軍第三十八師団と大量の補給物資をガダルカナル島に強行輸送し、同島のアメリカ軍を圧倒するという決断を下す[15]。第十一戦隊の金剛型戦艦2隻(比叡霧島)を中核として「第五次挺身隊」を編成し、彼らに第三十八師団上陸の前にヘンダーソン基地の砲撃を命じた。比叡、霧島とも就役してから30年が経過していたが、改装によって速力30ノットを発揮する高速戦艦となり、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦で空母機動部隊の護衛艦をつとめるなど、第一線級の能力を持っていた。特に比叡は大和型戦艦のテスト艦として装備が改良されていた。

吉田俊雄(海軍少佐、軍令部勤務)は「本来海軍が担当すべきガダルカナル島で陸軍が苦労している。せめて海軍は艦砲射撃で掩護しなければならない」という、陸軍に対する日本海軍の引け目が作戦の背景にあったと指摘している[16]。比叡、霧島を擁する第十一戦隊や各艦将校は「柳の下のドジョウ掬いで2回目は危ないのではないか」と懸念を示していたが、山本五十六連合艦隊司令長官がみずから陣頭指揮をとることを示唆すると、作戦を了承したという[17]。それでも、日本海軍はアメリカ軍の空母機動部隊が10月26日の南太平洋海戦で壊滅したとみて、アメリカ軍による妨害を排除可能と判断[18]。第三十八師団は最大速力15ノット以下の輸送船11隻に分乗し、11月13日を上陸予定日としてショートランド泊地を出港。南東に針路をとりガダルカナル島へ向かった[19]


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