第三政党制_(アメリカ合衆国)
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三大政党制」とは異なります。

第三政党制(だいさんせいとうせい、: Third Party System)は、政治学者や歴史学者が使う政治モデルであり、アメリカ合衆国に存在した政党制の中でおおまかに1854年から1890年代半ばまでを画するものである。この期間には民族主義、近代化および人種の問題が大きな発展を見た。前の第二政党制と、後の第四政党制とは明らかな対照をなすもので定義できる。

この時代はまだ歴史の新しい共和党(グランドオールド党、略して"GOP"とも呼ばれた)が支配した。南北戦争の結果、共和党は連邦を救い、奴隷制度を廃止し、解放奴隷に選挙権を与えることに成功したことを主張し、一方、国定銀行、鉄道、高率関税、ホームステッド法、および公有地認可大学に対する援助など、ホイッグ党的な多くの近代化計画を採用していた。1874年から1892年までの選挙はほとんどがかなりの接戦だったが、民主党は大統領選挙で1856年、1884年および1892年の3回を制したに留まった。ただし、この期間にアメリカ合衆国下院で多数派になることが多かった。実際に学者の中には1876年の選挙が構図の再編期であり、レコンストラクション支持に対する破綻があったと見る者がいる[1]北部西部の州は、接戦を続けたニューヨーク州インディアナ州を除いて概ね共和党支持だった。1876年以降、民主党は「ソリッド・サウス」を支配した[2]
有権者の挙動

以前の第二政党制時代と同様に、第三政党制の時代も熱烈な有権者の関心、継続する高い投票率、断固とした党への忠誠心、候補者指名大会の重視、階層的な党組織、および猟官制度と呼ばれた党活動家に対する互恵として役人の職を体系的に利用する仕組みなどで特徴づけられる。人口5万人以上の大都市には区や市全体の政党ボスがおり、お得意さん、特に新しい移民の票に依存できていた。新聞は主要な対話手段であり続け、大多数の有権者がどちらかの党に密接に結びつけられていた[3]
二大政党の幅広い連衡

二大政党は幅広い支持基盤の連衡を創っていた。北部では、事業家、商店主、熟練技能者、事務員および専門職が共和党を支持し、また現代と同様に商売指向の農夫も支持していた。南部では、共和党が解放奴隷(新しく選挙権を得たアフリカ系アメリカ人)からの強い支持を得ていたが、地方の白人(スキャラワグ)や日和見主義のヤンキー(カーペットバッガー)が党を制御することが多かった。人種問題はリディーマーとして南部白人の大半を民主党に惹き付ける要因になった。民主党は保守的で企業よりのブルボン民主党と呼ばれた会派が主であり、1868年から1896年まで党全国大会を支配した。1896年はウィリアム・ジェニングス・ブライアンに大敗した年である。民主党の連衡相手は北部の伝統的民主党員(カパーヘッド)だった。これに南部のリディーマーと、カトリック系移民、特にアイルランド人ドイツ人が加わっていた。さらにニューイングランドの遠隔地やオハイオ川沿岸では非熟練労働者や貧しい昔ながらの農夫も加わっていた[4]
宗教: 敬虔な共和党員対典礼派の民主党員

宗教による棲み分けははっきりしていた[5]。北部のメソジスト会衆派教会長老派教会スカンディナヴィア系のルーテル派など敬虔な新教徒は共和党と堅く結びついていた。対照的に典礼派集団、特にカトリック教会、監督派教会、ドイツ・ルーテル派の信徒は敬虔な道徳観、特に禁酒強制から守ってくれる党として民主党を見なしていた。両党は経済的階級構造の中に入っていたが、民主党はその下層からの支持が多かった。

文化的な問題、特に禁酒と外国語学校の問題は、宗教がはっきりと選挙区を分けていたので重要になった。北部では、有権者の約50%が敬虔なプロテスタントであり、政府は飲酒の様な社会的罪を減らさせるべきだと信じていた。典礼派教会には有権者の4分の1以上がおり、個人的な道徳の問題に政府が立ち入らないよう望んだ。大半の州では禁酒に関する議論や住民投票が数十年間にわたって、政治の熱い問題となり、遂に1918年にはアメリカ合衆国憲法禁酒を規定する修正が成立した(1932年には撤廃された)。民主党は禁酒反対、共和党は禁酒賛成という構図だった[6]

19世紀後半、アメリカ合衆国北部の宗教による投票動向
宗教民主党支持率共和党支持率
移民
アイルランド系カトリック教徒8020
カトリック教徒全体7030
ドイツ・ルーテル派信条主義6535
ドイツ改革派6040
フランス系カナダ人のカトリック教徒5050
ドイツ・ルーテル派弱い信条主義4555
イギリス系カナダ人4060
イギリス家系3565
ドイツ・セクタリアン3070
ノルウェー・ルーテル派2080
スウェーデンルーテル派1585
ハウジアン・ノルウェー595
アメリカ生まれ
北部
クエーカー595
自由意志バプテスト2080
福音主義2575
メソジスト2575
通常のバプテスト3565
黒人4060
長老派教会4060
監督派教会4555
南部
規律派教会5050
長老派教会7030
バプテスト7525
メソジスト9010
Source: Paul Kleppner, The Third Electoral System 1853-1892 (1979) p. 182
1850年代の再編

1852年以降、ホイッグ党が破綻し、政治的な混乱状態となった。様々な禁酒運動や民族主義運動が現れ、特に秘密主義のノウ・ナッシング支部から出てきたアメリカ党があった。これは汚職を怖れる中産階級に訴えた道徳重視の党だった。特に到着するや否や犯罪、汚職、貧困およびボス制度をもたらすと考えられた新しいアイルランド系移民の多いカトリック教徒にその恐れがあると見なした。共和党がイデオロギーと能力でより影響を受け、1856年にはアメリカ党を超えた。1858年までに共和党は北部全州で多数派となり、1860年大統領選挙では選挙人票を支配した。
イデオロギー

新しい党を推進するイデオロギーは、近代化と、奴隷制度という反近代的脅威に対する反対だった。1856年大統領選挙までに共和党は「自由土地、自由労働、フレモントと勝利」というスローガンで改革を推進していた。主たる論点は「奴隷権力」が連邦政府を支配しており、新しい領土で、さらには北部諸州でも奴隷制度を合法化しようとしている、ということだった。これを許せば裕福な奴隷所有者がどこにでも行って最良の土地を購入し、自由労働者の賃金を下げ、市民社会の基盤を破壊する恐れがあった。民主党はこの改革運動に反応して、1856年の選挙で共和党候補者のフレモントを選べば内乱が起こると警告した。当時民主党の著名指導者はイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスであり、各州あるいは準州で民主的な方法を適用すれば奴隷制度問題を解決できると考えていた。1856年で当選したジェームズ・ブキャナン大統領がカンザス準州で奴隷制度を認めさせようとしたとき、ダグラスはブキャナンと袂を分かつことになり、この分裂が1860年大統領選挙で民主党が破滅する予兆となった。1860年、北部民主党はダグラスを大統領候補に選び、南部民主党はジョン・ブレッキンリッジを資産権と州の権利、すなわち奴隷制度を擁護する者として選んだ。南部では、元ホイッグ党員が急拵えの「立憲統一党」を結成し、民主主義、州の権利、資産あるいは自由に拠らず、憲法に基づいて国の統一を守ろうと訴えた。1860年の共和党は安全策を採り、自由の提唱者として知られる境界州の穏健派政治家を選び、著名な急進派を抑えた。エイブラハム・リンカーンは演説もせずに、党の機関が部隊を投票に向かわせるままにしていた。リンカーンの対抗馬3人はイデオロギー的に違いがありすぎただために不可能ではあろうが、彼等が共闘を選んだとしても、リンカーンの得票率40%で北部を制することができ、選挙人投票で当選するのに十分だった[7]
南北戦争

リンカーン大統領が戦争に勝利しただけでなく、反奴隷制度、自由土地、民主主義および民族主義の力を引き出し、合成させることで戦争を遂行したのは、リンカーンの類い希な精神を表すものである[8]


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