第三四三海軍航空隊
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三四三航空隊の主力戦闘機「紫電改」。三四三空に集中配備された

第三四三海軍航空隊は、大東亜戦争期における日本海軍の戦闘機部隊の一つ。1944年1月に開隊した初代の通称隼部隊(はやぶさぶたい)と、1944年12月に開隊した二代目の通称剣部隊(つるぎぶたい)がある。後者は大戦末期、優秀な搭乗員を擁して、敗色濃厚で劣勢な日本本土防空戦のなかにあって終戦まで戦闘機紫電改を用いて活躍した部隊として知られる。
隼部隊

隼部隊(はやぶさぶたい)は、最初の局地戦闘機部隊として編制されたが、紫電の生産遅延などによる機材不足から、零戦装備の航空隊として1944年1月1日に鹿児島航空基地で編成される。配備機数の面から有力な部隊とされた。分隊長は飛行学生を終えたばかりのものが務めており、隊員も1943年11月に練習機の短期間訓練を終えたばかりの甲飛10期生が中核であった[1]。所属機識別章は下二桁を取った「43」。

1944年2月にトラック、マリアナが空襲されたことを受けて、4月マリアナ諸島方面に進出・展開したが、同年6月?7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅、7月10日解隊した。浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は本隊がグアム島で破棄した機体である。零戦五二甲型 188号機「43-188」
歴代隊司令


竹中正雄 中佐:昭和19年1月1日 - 昭和19年7月10日[2]、同日付解隊[3]

剣部隊
特徴

剣部隊(つるぎぶたい)は、1944年(昭和19年)中盤、サイパングアムで相次いで日本軍が玉砕し、絶対国防圏が破られた事で米軍による本土空襲が避けられないと判断した日本海軍が本土防空部隊の設立に着手する情勢の中で、本土周辺空域の制空権を回復しようと、戦闘機隊出身の軍令部作戦課航空部員であった源田実大佐の着想によって創設された[4]。戦闘機隊は局地戦闘機紫電改紫電を装備。偵察機隊は艦上偵察機彩雲を装備。所属機識別章は「343」。一般的に三四三空と言うと剣部隊のことである。

三四三空は、編隊を重視、徹底しており、米軍からも日本では珍しく2機1組の編隊空戦を行う熟練者たちと認識されていた[5]。4機1小隊とし、乱戦になっても最低2機1組で戦い(ロッテ戦術)、離れないように指導された[6]。当時不良状態だった無線電話の実用化に注力して、通信科の努力と横空の技術支援で10倍の改善を成功させた[7][8][注 1]山田良市は「この時ほど、日本海軍において、地対空、空対空の無線電話が活用され実績を挙げた例はほかにはないと思う。」と語っている[11]

指揮所、宿舎、整備補給拠点の分散設営、分散整備態勢の確立、指揮所通信網・情報収集機能の充実、特に航空隊レベルを超えた指揮通信網の整備が行われた[7][11]レーダー、見張り所、上級司令部をつないだ情報ネットワークの形成[8]。最もいいタイミングで戦えるように米機動部隊の情報を送る連絡将校を陸海軍に派遣した[12]。大編隊同士の空戦では肉眼で優位を占めるのは困難であり、小隊のように軽快な運動もできないため、空中指揮官が戦闘計画を頭に置き、初動において優位を占めて邀撃の効果を高められるように、艦上偵察機彩雲を装備する偵察第4飛行隊による事前の情報収集を行った[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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