第一生命館
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この項目では、千代田区日比谷にあったビルについて説明しています。中央区京橋にあったビルについては「第一相互館」をご覧ください。

第一生命館

情報
用途事務所
設計者渡辺仁、松本興作
施工清水組(現・清水建設
建築主第一生命保険
事業主体第一生命保険
構造形式鉄骨鉄筋コンクリート構造
敷地面積5,557.694 m² ※1,681.360坪
建築面積4,075.265 m² ※1,232.768坪
延床面積46,551.977 m² ※14,081.973坪
階数地下4階、中2階付地上7階、塔屋2階付
高さ軒高30.50メートル、塔屋部分38.45メートル
エレベーター数乗用12台、貨物用1台
着工1935年(昭和10年)4月
竣工1938年(昭和13年)11月3日
改築1989年(平成元年)12月解体(東寄り部分)、1993年(平成5年)10月1日改装(西寄り部分)
所在地東京都千代田区有楽町一丁目13番
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分33.87秒 東経139度45分38.02秒 / 北緯35.6760750度 東経139.7605611度 / 35.6760750; 139.7605611 (第一生命館)座標: 北緯35度40分33.87秒 東経139度45分38.02秒 / 北緯35.6760750度 東経139.7605611度 / 35.6760750; 139.7605611 (第一生命館)
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第一生命館(だいいちせいめいかん)は、かつて東京都千代田区有楽町にあった建築物である。別称には第一生命ビル、第一ビル、日比谷第一生命館などがあった。
概要

日比谷濠に面して1938年(昭和13年)に竣工したのちは、第一生命保険本社としてのほか郵便局、貸ホール、女学校校舎、剣道場、警視庁仮庁舎、連合国軍最高司令官総司令部本部などとしても利用されていた。1989年(平成元年)から1995年(平成7年)にかけて順次DNタワー21として再開発された際、西寄り部分はその「本館」として改装したうえ維持されたが、内部の保存については全ての内装(マッカーサー記念室などの、6階の一部の室を除く)、設備、共用部及び一部の躯体をそれぞれ取り壊し、一切の間取りを変更した上、構造体の一部を再利用したのみにとどまったため、当初の内装は先述の室を除き全て失われている[1]
沿革
前史

第一生命保険会社は1921年(大正10年)より同年に竣工した東京・京橋の第一相互館を本社屋としたが、それは業容の拡大により狭隘を告げるにいたったので、新社屋が建設されることになった[2]。然るに、関東大震災で倒壊した当時の東京市麹町区有楽町一丁目9番地にあった警視庁跡地が民間に払い下げられていたので、1931年(昭和6年)6月、会社は建設用地として4区画中L字型の3区画を182万円で取得した[2]

なお同地の4区画中、1区画はすでに産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)に買い取られていたため、会社は土地を譲渡するよう交渉したがそれは承諾されず、1933年(昭和8年)そこには農林中央金庫有楽町ビルが完成させられたのである[2]
設計

上述の意図によって会社は1932年(昭和7年)5月社内に「本館建築部」を設け、同社からは今村繁三取締役を部長に、外部からは葛西萬司横河民輔佐藤功一櫻井小太郎中條精一郎の5名に建築顧問を依嘱[2]した。その設計図案は一般から募ることとし、1932年(昭和7年)10月31日を期限に設計図案が懸賞募集され、審査員は5名の建築顧問ならびに矢野社長などにして、審議が行われた結果、268案の内10案が優秀賞に選出され、この10案の作者には賞金が送られた[2]

この10案を参考に、1933年(昭和8年)より京橋の第一相互館において、建築家の渡辺仁、第一生命の技師・営繕課長であった松本興作の2者で実施設計に着手された。会社の要求も事情の変化に伴い、平面等も当初より案を改めること28回にも及んだ。外観においては、設計当初皇居周りの美観地区であることからギリシア風円柱が立ち並ぶ意匠も立案されたものの、結局方柱が立ち並ぶものとなった。
施工

然るに、その地は、かつて東京湾が湾入し日比谷入江を形成していたところにある軟弱な地盤であった。100尺の深さまでボーリングが行われた結果、70尺以下には丈夫な岩盤があることが確認された[2]。また、同社は東京帝国大学地震研究所所長の石本巳四雄に調査を依頼し、1932年(昭和7年)の暮から1934年(昭和9年)の春まで、1年半にわたる震度測定が行われた[3]。これらによって、70尺の第3紀層まで基礎を掘り下げなければ耐震の建物が建てられないという結論が得られた[2]。さらに、日比谷濠の水が地下部分の工事中に流入する恐れがある旨官庁指導があったため、当時としては画期的であった潜函工法による施工が計画された[4]

かくして1934年(昭和9年)8月22日には地鎮祭執行の運びとなり、工事は進捗して1937年(昭和12年)4月19日上棟式が行われ、ついに1938年(昭和13年)11月3日修祓式を迎えた。
竣工後

太平洋戦争中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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