第一次英蘭戦争(First Anglo-Dutch War)
英蘭戦争(イギリス・オランダ戦争)中
第一次英蘭戦争の最後の戦闘、1653年8月10日のスヘフェニンゲンの海戦(英語版)。(Jan Abrahamsz Beerstraaten画)
時1652年 - 1654年
場所イギリス海峡、北海、イタリア沿岸
結果イングランド共和国側の勝利、ウェストミンスター条約の締結
衝突した勢力
イングランド共和国(Commonwealth of England) ネーデルラント連邦共和国(Dutch Repubric, United Provinces of the Netherlands)
指揮官
ロバート・ブレイク
ジョージ・アイスキュー
ヘンリー・アップルトン
ジョージ・マンクマールテン・トロンプ †
ミヒール・デ・ロイテル
ウィッテ・デ・ワイズ
ヨハン・ファン・ガレン
戦力
軍艦約300艦軍艦約300艦
被害者数
死者2500人
軍艦10艦沈没
軍艦7艦拿捕死者3000人
軍艦33艦沈没
軍艦18艦拿捕
第一次英蘭戦争(だいいちじえいらんせんそう、英語: The First Angrlo-Dutch War、オランダ語: De Eerste Engels-Nederlandse oorlog、1652年 - 1654年)は、イングランド共和国(イギリス)とネーデルラント連邦共和国(オランダ)の両海軍間で争われた、もっぱら洋上を戦場とする戦争である[注釈 2]。貿易をめぐる紛争に端を発し、イングランドによるオランダ商船攻撃によって始まったが、大艦隊の出動によって戦闘が拡大した。結果として、英海軍はイングランド近海の制海権を獲得し、オランダに対し、イギリスおよびその植民地との貿易において英本国による排他的独占を認めさせた[1]。この戦争は、イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争)の最初の戦いとなった。
背景1648年より建設の始まったアムステルダム旧市庁舎(現、王宮) オランダ黄金時代を象徴する建造物
16世紀、イングランドとネーデルラントは、ハプスブルク家の野心に抗して軍事同盟を結んだ。1588年のアルマダ海戦では、両国は協力してスペイン無敵艦隊(アルマダ)と戦った。八十年戦争(1568年-1648年)にあっては、イングランドは資金や軍そのものを送ってオランダ(北部ネーデルラント)を支援した。オランダ政府部内には、戦争での相互協力をより確実に調整するために、イングランド側の代表者が常置されていたほどである。1648年に終結した三十年戦争(1618年-1648年)後のスペインの国力の弱体化によって、多くのポルトガル帝国領およびスペイン帝国領植民地とそこで産出される鉱物資源とは事実上誰にでも手に入れることができるといってよかった。そして、イングランドの帝国領進出は、かつての同盟国オランダを紛争のなかに引き入れた。オランダにあっても、スペインとの講和が成立したため、急速にイベリア半島地域が主要な貿易相手として従来のイングランドに取って代わったのであり、加えて1590年来のオランダ貿易にまつわるイングランド側の遺恨も止むことなく進行していたのである。
17世紀中ごろ、オランダはヨーロッパにおいて、他のすべての国の艦数の合計をうわまわるほどの突出して巨大な商業艦隊を建設しており、これは主として海上の商取引に基づくものであった。オランダは、ジャワ島から日本にいたる海域の貿易と通商路を独占して莫大な中間利益を本国にもたらしただけではなく、ヨーロッパ諸国間の海上輸送にも手をのばし、とくに北海貿易・バルト海貿易において支配的な地位にあった[2]。さらにオランダは旧ポルトガル領の多くを征服し、東インド諸島(現、インドネシア)やブラジルにおいてその交易のほとんどを支配し、莫大な収益をもたらす香辛料取引の権限をにぎった[2]。そして、オランダは当時まだ小さな存在にすぎなかった英領北米植民地とイングランドのあいだの貿易にも重大な影響力をもつにいたったのである[2][3]。イングランド王チャールズ1世 清教徒革命とそれにつづくイングランド内戦の結果、打ち首となったステュアート朝の王
イングランドとオランダの間の通商貿易ないし航海における不均衡は拡大していった。その理由は第一に、イングランドにおける通商航海のシステムが物品税や関税に基づいていたのに対して、オランダの通商航海のシステムは、これらの間接税によらない自由貿易を原則とするものであったことによる[注釈 3]。それゆえ、オランダ製品は安価で購入でき、イングランドの製品よりも世界市場において競争力を有していた。たとえば、イングランドの羊毛業者は英語を話すアメリカの港湾では手広く取引をおこなうことができても、5,000袋のうち4,000袋の売れ残りをのこしてアメリカの港を離れると考えられたのに対し、オランダ船はわずか1,000袋の売れ残りをのこしてアメリカの港を出帆できると考えられた。イングランドの伝統的な市場であったバルト海、ドイツ、ロシア、スカンジナビア半島においても、その貿易は衰えていったのである[4]。
原因の第二は、三十年戦争終結後の、17世紀中葉におけるオランダの通商上・航海上の優位性であり、これはオランダの視点からみればスペインからの独立を勝ち取った八十年戦争の終結でもあった。戦争の終焉は、スペインによってオランダの港湾やオランダ船からの通商停止命令が解除されることを意味していた[5]。これはオランダの貨物輸送料金と海上保険率の急速かつ恒久的な低下をもたらし、オランダ製品の価格低下に反映されたのである。それにまた、スペイン・オランダ関係の正常化によって、両国間の貿易はすぐに再開された。一方、イングランドはスペインとの貿易がまだ制限されていた。1651年、イングランドは経済的に不況状態に陥った[6]。
オランダの通商における有利性の第三の理由は、清教徒革命勃発にともなうイングランド内戦(1642年-1651年)であった[2]。オランダの優越に対し、イングランドは1630年以降、大ブリテン島の西海岸および南海岸に近接する狭い海域をみずからの領海として、その領有権を主張してオランダ船の自由航行を禁じたが、1642年の清教徒革命の勃発にともなう混乱に乗じ、オランダ船は以前にもましてイングランド市場に食い込んだのである[2]。1649年、オリバー・クロムウェル率いる議会派は君主制を打倒し、国王チャールズ1世を斬首刑に処した。