第一次満蒙独立運動
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: "第一次満蒙独立運動" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年4月)

第一次満蒙独立運動(だいいちじ まんもうどくりつうんどう)は、最末期に計画された、清帝室の末裔を首班とした満洲蒙古地域の亡命政権構想。

1912年、辛亥革命により、袁世凱中華民国大総統として国政を掌握する中、日本の大陸浪人の一部が清の皇族を擁して満洲へ脱出、満洲一帯の独立国家の樹立を企図する。

最終的に、日本政府の制止によって計画は中途で中止された。
経緯
前史

大清帝国の支配者である愛新覚羅氏は元来、満洲をその本拠地としていたが、19世紀以降は西洋列強の侵入によって国力を減退し、中原の漢民族の独立闘争を抑えるのが手いっぱいであった。満洲地方は、大日本帝国ロシア帝国の権益がぶつかる要衝となっており、日本の安全保障を図る上でも、清の動向は注視する必要があった。

1911年10月、辛亥革命が発生し、中原南部の14州が清国の主権から独立する。清国は、閑居をおくっていた功臣の袁世凱を復帰させ、11月17日に首相に任命、独立運動の鎮圧を命じた。

革命当初の日本の対応としては、伊集院彦吉駐清公使は、袁首相であればこれを鎮圧して、以降の国政運営も滞りなく回るであろうと判断、対清政策も問題なしと考えていた[1]
独立運動の計画

この伊集院公使の対袁協調策に反旗を翻したのが、在北京の大陸浪人の首魁であった川島浪速である。

川島が革命勃発当初構想していたのは南北両分離策であった。すなわち、南部の動乱地域についてはしばらく放置し、清政府からの要請を受けて日本も共同出兵してこれを打破すべし、という策であった。しかし、上述のように袁首相が出兵することにより、清単独での事態収束を見守る方針に公使館が転換し、川島の目論見は崩れる。川島は、袁の暗殺や宣統帝の拉致を計画するが、いずれも失敗に終わる[2]

その後、出征した袁首相は、革命勢力(中国国民党)との妥協を図る。内乱に突入すれば中国一帯の独立自体が危うくなることを危惧し、平和裏による事態収拾を図ったのである。1912年1月、国民党の首班に担がれていた孫文と交渉が行われた結果、臨時大総統の座を孫から袁に譲り、袁が新たに国政を掌ることで合意をとった。袁首相は北京に戻り、帝室(隆裕皇太后)への説得にかかった。

清朝廷が袁首相の提案に揺れる中、川島は、このままことが袁首相の思惑通りに運ぶと、袁首相の独裁体制が確立して、満洲の独立が危うくなることを危惧、旧知の皇族を担いで満洲に逃れさせ、これを旗印に現地の軍閥と連携、蒙古地域と合わせて親日勢力の独立を保たせることを企図する。そしてゆくゆくは、中華民国の混乱した隙を突いて南下し、清朝を復興する、というものであった。1月29日以降、川島は帝国陸軍の参謀本部や関東都督府に電報を打ち、現地の軍閥の放棄と呼応した武具、武力の提供を要請している[3]

軍上層部の反応ははかばかしくなかった模様であるが、川島の挙兵計画は進み、2月2日、川島と親交があった清皇族の愛新覚羅善耆粛親王)が北京を脱出、6日には旅順へ到着し、都督府が提供した民政長官宿舎を宿泊所とした[4]
計画中止

2月11日、清帝室は、一部の権益の保証(清室優待条件)と引き換えに、統治権の放棄を受け入れ、3月10日には袁が正式に中華民国大総統に就任、平和裏に権力移行が達成される。日本はじめ列強もこの動きを見て、新生中国の治世への関与を進めてゆく方針をとる。そのため、日本の政府首脳は、それまで放任していた川島の独立運動の牽制にかかる。

川島は東京に呼び出され、福島安正参謀次長、ついで内田康哉外相から、運動中止の命令を受ける。閣議で既に方針が決められたため、川島も抗しがたく、旅順の粛親王の生活を保障すること、満蒙に川島配下の者を配置することには干渉しないことを条件に、計画中止を受け入れた[5]
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 升味, p. 256.
^ 升味, pp. 256?257.
^ 升味, pp. 257?259.
^ 升味, p. 259.


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:12 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef