第一次大覚醒
[Wikipedia|▼Menu]

第一次大覚醒(だいいちじだいかくせい、First Great Awakening)は、1730年代から1740年代にかけてアメリカニューイングランドを中心に北東部で起こった宗教再生運動(宗教復興運動、リバイバルとも)。当時は単に「大覚醒(Great Awakening)」とだけ呼ばれたが、後代にも同様の現象が起こったため、第一次として分けられる。これらを総称して大覚醒と呼ぶが、文脈上はこの第一次のみを指して大覚醒と呼ぶ場合もある。

第一次と呼称されるように一過性の運動ではなく、その後も同様の運動が起き、現代にも見られる様々な教派の並立や、クリスチャン・ラジオやテレビ伝道師といったキリスト教のメディア展開など、アメリカ特有の宗教動態、社会制度や文化への影響を基礎付けたものとして知られる。
概要ジョナサン・エドワーズがニューイングランドで起こった出来事を記録し、ロンドンで出版した『誠実な報告』の表紙

1737年イェール大学の首席卒業者で会衆派教会の聖職者であり神学者でもあるジョナサン・エドワーズが、1734年からニューイングランドにおいて見られた急速な信仰心の高揚という社会現象をロンドンに報告したのが一つの始まりとされる(『誠実な報告』1737年)。例えばエドワーズは、当時自身が受け持っていた現在のマサチューセッツ州ノーサンプトンの町で、下記のことが起こり、周辺の町にも急速に広がっていったという。

その年の春、二人の若者が相次いで急死し、人々の間に人生のはかなさについての実存的な不安が広まった。これに数人の回心が続き、さらにある身持ちの悪い婦人が劇的な回心を遂げるに及んで、街全体が急速な宗教心の高揚を見るに至る。巷では、目に見えて風紀が改まってゆく。浮かれ騒ぎや不謹慎な会話がなくなり、酒場が空になり、慈善が増える。断食をはじめる者もある。教会の礼拝祈?会は大盛況で、集まった人は救いの歓喜や罪の悲嘆にむせび泣く。ひきつけや痙攣などの身体的症状を起こす人もある。とにかく、町をあげての大騒ぎである。恍惚状態に陥ったまま、一日まったく身体を動かさない人もあった。人びとは集会が果てた後も祈り、賛美歌を歌い、夜を徹して語り合う。家路に着いた人も、大声で泣きながら通りを歩いていった。当時人びとが交わす挨拶の言葉は「もう経験されましたか」だったという。こうした状態が数ヶ月ほど続く。 ? 『反知性主義』(森本あんり)より、エドワーズが報告した現象について

これらの担い手は、今日には名も残っていない素人伝道者らの説教だったと考えられているが、この後、1741年にエドワーズ自身も、その説教『怒れる神の御手の中にある罪人(Sinners in the Hands of an Angry God)』によって、更に大きな信仰復興の波を起こすこととなる。また既に大説教家と知られていたイギリスメソジスト派の伝道者ジョージ・ホウィットフィールドは、1739年にニューイングランドを再訪して1年かけて植民地中を説教して周り、その後も何度もアメリカを訪問して引き続き民衆の信仰心に火を着け、エドワーズと共に第一次大覚醒の主要な担い手として知られる。

彼らの説教は従来のものと異なり、身振り手振りを交え、平易な言葉で語られ、非常に感情的であった。新しい説教のスタイルは、それ故にアメリカでの宗教の熱をよみがえらせた。参加者らは、知的な談話を受け身で聞くよりも、情熱的に彼らの宗教に関わるようになった。リバイバル賛成派の牧師たちは一般的に「ニュー・ライト(new lights)」と呼ばれ、一方でリバイバルに反対し、理知的に静かな説教をしていた伝道者たちは「オールド・ライト(old lights)」と表現された。この分裂は二つの神学的流れを生んだ。回心運動に影響された人々は家で聖書を研究し始めた。これは事実上、宗教的な方法で公衆に知らせる手段を分散させ、宗教改革時のヨーロッパでの個人主義的傾向と同様のことであった。

第一次大覚醒は、公共の場での悔悟を含む決定的な行動で、個人的な罪と救済の必要性を会衆に納得させることを目指した強力な説教から生じた。大覚醒は、人々を「彼ら自身のやり方で神を経験する」ように導いた。
前史と時代背景

ニューイングランドを中心とするアメリカ初期移民で、厳格なキリスト教観を持つ清教徒の社会においては、ことさらに宗教と社会の結びつきが強く重要なものであった。

強固な万人祭司聖書のみの考えによって一般信徒にも神学的な聖書理解が推奨される社会においては日曜礼拝が重要だった。例えば1629年に殖民が始まったマサチューセッツ湾植民地では、1636年にはアメリカ最古の大学と知られるハーバード大学の設立が決定されているが、これは現代に知られる学問の府、教育機関という目的よりも、牧師の養成機関(また、牧師にならずとも高度な聖書理解ができるための基礎教養を学ぶ場)という役割が重視されたものである(ハーバードに限らず、当時のアメリカで設立された大学機関には牧師の養成機関という役割が期待されていた)。それほど牧師という職種が重視されたのも、一般信徒へ聖書の内容を教え説く存在として必要だったためである。こうした背景を持つ日曜礼拝は、牧師が説教によって大衆に高度な聖書理解を指導する場であって、それは大衆からみれば高度な聖書理解を行うための知性が要求される場であった。こうした場における説教というのは、端的に言えば退屈な事柄であり、決して聞き手を熱狂させるような要素は無かった。

また、この植民地社会で重要だったのが回心であった。カトリックなど伝統的なキリスト教においては洗礼幼児洗礼)においてキリスト教に入信したと見なされたが、清教徒(や福音主義)においては、あくまで形式的なものとされ[1]、成人してからの洗礼、回心を重視した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef