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第一次共産党(だいいちじきょうさんとう)は、1921年(大正10年)4月ないし翌1922年(大正11年)7月に創立されたのち、1924年(大正13年)3月頃に解散されるまでの、非合法組織時代の日本共産党を指す呼称である。この時期の共産党は政党というよりも、複数の思想団体の集合体であった。 当時は非合法な秘密結社であり、公認された政党でないどころか、その実体は、革命への使命感と鉄の規律をもった強固な党員組織などと言える代物ではなかった。まだ少人数のサークル的な性格を留めており、複数の思想団体の寄せ集めに過ぎなかった。 1921年4月、堺利彦・山川均・近藤栄蔵・橋浦時雄・高津正道らが東京で「日本共産党準備会」(「コミンテルン日本支部準備会」)を発足。 1922年7月15日、「社会主義研究」に影響を受けた堺、山川、近藤ら8名が渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まり、非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党(「第一次共産党」)を創立。当時のメンバーは、堺・山川・荒畑寒村・渡辺政之輔・徳田球一・佐野学・鍋山貞親・野坂参三らである。同年11月のコミンテルン第4回大会に日本共産党代表を派遣し、「コミンテルン日本支部」として正式に承認されたが、1923年6月に一斉検挙にあい、荒畑を除く党指導部の全員の意思により1924年2月までに解党した。 これまで散在していた60人前後のコミュニストによる諸サークルの連合体といった存在で、のちのように細胞を基礎とした中央集権的な組織ではなかった。しかし、リーダーの住所から、大森細胞(山川グループ)、麹町細胞(堺グループ)などと呼ばれたりする組織があった。そして、堺、山川、荒畑など、明治からの社会主義者のもとで、中核をなしたのが、新人会や建設者同盟、暁民会などの学生運動出身者であった。たとえば、山川系の水曜会を基礎につくられたいわゆる大森細胞には建設者同盟の田所輝明が参加した。また暁民会系の人脈は第1次共産党の大きな基礎となったが、そのうち浦田武雄は『農民運動』グループの細胞の中心であり、これには建設者同盟の稲村隆一が参加した。このほか建設者同盟からは浅沼稲次郎、森崎源吉も第1次共産党のメンバーとなっている。 総同盟の中にも共産党グループがあったのは確かなようで、新人会の赤松克麿、野坂参三がその中心であった。このほか新人会系では、のちの再建共産党の中心人物になる佐野学や、関西からは小岩井浄が加わっている。 1917年(大正6年)にロシア帝国で共産主義革命が起き(ロシア革命)、世界革命を目指すロシア共産党(ボリシェヴィキ)(→ソビエト連邦:ソビエト連邦共産党)は1919年(大正8年)にコミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インター)を成立させ、ロシア革命に狂喜する各国の運動家や運動団体にはたらきかけ、各国に支部を作っていった。当時の日本には、大逆事件など明治期の弾圧の結果、一握りの社会主義者しか残っておらず、それも厳格な監視のもとにあった。ロシア革命の影響を受け、日本においても従来の社会主義者に加えて、若手の社会主義運動家たちの間で社会主義革命をめざす党を結成しようとする動きが起こり、共産党を結成しようとする運動が活発化する。 アメリカで社会主義活動をしていた近藤栄蔵は、1918年(大正7年)に日本で勃発した米騒動のニュースを聞いて、日本で共産党を結成して革命を遂行しようと決意、1919年(大正8年)に帰国して、堺利彦・山川均・荒畑寒村ら、明治以来の古くからの社会主義者と連絡を取り合うようになる。1920年(大正9年)10月にはコミンテルンの使者が接触した。コミンテルンは、堺や山川に、極東における社会主義者の国際組織をつくるために上海に行くことを希望した。しかし大逆事件の記憶もあって、彼らは慎重に判断し、それに応じなかった。 そこで無政府主義者の大杉栄が上海に行くことになった。大杉は極東社会主義者同盟の設立に賛成はしなかったが、通信連絡委員会をつくることには同意した。若干の資金を受け取って帰国した大杉は、1921年1月、近藤らと週刊『労働運動』を創刊した。
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歴史
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創立
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