第一次世界大戦の賠償
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第一次世界大戦の賠償(だいいちじせかいたいせんのばいしょう)では、第一次世界大戦後に発生したドイツなど中央同盟国に課せられた戦争賠償について記述する。
ドイツ
賠償要求決定の背景「ヴェルサイユ条約」も参照ドイツからフランスに運ばれる物納賠償 (1920年)

1918年11月18日、ドイツ帝国が申し出た休戦はアメリカに受理され、休戦協定が締結された。この休戦協定ではアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が唱えた「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた。この原則の中には「無償金」も含まれていた[1]。この背景には、反帝国主義者によって賠償金が貪欲な略奪と同義であり、併合と同種の野蛮なものであると見られていたことがある[2]イギリス政府はこの綱領が講和の基礎になることについては不服であったが、早期休戦成立のために承認せざるを得なかった[3]。首相デビッド・ロイド・ジョージは1月5日の会見で賠償金要求を否定していたものの、基本的な主張としては「完全な復旧、完全な賠償、有効な保障」が講和条件であり、「賠償なくして講和は不可能である」「それは復讐的であるといった問題ではない、報復するといった問題ではない。償金はあらゆる意味で本質的なものである」と、賠償要求の可能性を崩してはいなかった[4]。また、ジョルジュ・クレマンソー首相のフランスも最大被害を受けた国として賠償を譲ることは出来なかった。フランスは安全保障の観点からも賠償によって産業を復興させなければならず、同時にドイツを弱体化させることが必要であった[5]。また、英仏は戦費のためアメリカから膨大な借り入れを行っており[6]、賠償金無しに返済は困難であった。ただし伝統的にヨーロッパから孤立した地域にあるイギリスと、ドイツと接するフランスの間ではドイツの脅威に対する恐怖の差異があった[7]
イギリスの国内事情

イギリスの大蔵省A課はドイツに課す賠償額策定の任に当たっていた。1918年には責任者にジョン・メイナード・ケインズが就任した。A課は11月に「ドイツの支払い能力は高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」になるという見通しの報告書を作成し、閣議に提出した。しかし一部閣僚は納得せず、オーストラリア首相のビリー・ヒューズを委員長とし、イングランド銀行総裁ウォルター・カンリフ(en)らを委員とする委員会が新たな報告書を策定した。この報告書では連合国戦費すべてをドイツに支払わせるという前提で作成され、大戦前のドイツ貯蓄を基準として賠償請求額は240億ポンドにするべきであるとした[8]。おりしも12月の総選挙が迫っており、好戦的なノースクリフ系の新聞が対独強硬的なキャンペーンを行ったことで、ヴィルヘルム2世の裁判や全額賠償を求める世論が高まっていた[9]。ロイド・ジョージは11月29日に「ドイツはその能力の限界まで戦費を支払わねばならぬ」[10]と声明し、12月11日には戦費全額を賠償させると言明した上にヒューズ委員会による240億ポンドという具体的な賠償請求額を公表した。このことによってタイムズ紙なども対独強硬な主張を掲載し、賠償金要求の声はさらに高まった。しかし選挙の結果、ロイド・ジョージ自身の与党である自由党はむしろ議席を減少させ、右派の保守党の勢力拡張に繋がった[11]
パリ講和会議

1919年1月からパリ講和会議が開始され、賠償問題が協議された。この会議の当初で最も紛糾した争点は、「フランスによるザールラントの領有」、「フランスによるライン川左岸占領の継続」、そして「賠償金」であった[12]。3月25日からはウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーにイタリア首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドを加えた4人で会議が行われた。クレマンソーは強硬に賠償要求を行ったが、ロイド・ジョージはあまり長期にドイツを拘束することは復讐心をかき立てるとして反対であり、「賠償支払の期間は出来るだけ短くしなければならない」と説いた[13]

一方で巨頭会談とは別に、1月23日には賠償委員会が設立された。慎重派のケインズは委員会に出席できず、ヒューズやカンリフといった強硬派がイギリス代表となった。アメリカ代表は賠償を損害の補償に限定しようとしたが、ヒューズらは戦費をも含めるべきと主張した[14]。ウィルソンは戦費を含めることは認めないと指示を送った[15]。これに対してイギリスとフランスは、対米債務の削減があれば賠償金削減があるとほのめかしたが、3月8日にアメリカ財務省はいかなる債務削減にも応じないと拒否回答した[16]。行き詰まりを打開するために3月10日に設置された米英仏専門家の三者委員会はドイツが支払い可能な額を考慮し、3月15日には総額1200億マルク(600億金マルクと600億パピエルマルク)という賠償額を勧告した。ロイド・ジョージやクレマンソーも現実的な路線に転換し、イギリスは委員会代表にケインズを加入させた[17]。しかし保守党や新聞世論を背景とするヒューズやカンリフ、ジョン・ハミルトン (初代サムナー子爵)(英語版)常任上訴貴族 (Lords of Appeal in Ordinary) [18]の抵抗は強かった。3月26日に米英仏の三政府案が提出されたが、アメリカが最大1400億マルク、フランスが1880億マルク、イギリスは2200億マルクと開きは大きかった[19]。ロイド・ジョージとクレマンソーは講和会議での決着を諦め、決定を先送りすることにした。一方で賠償に軍人恩給を含めるべきとする英仏の主張がアメリカを屈服させ、条約にはドイツの恩給支払いが盛り込まれることとなった[20]。ケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国した。

6月28日にヴェルサイユ条約が署名された。第八編231条で大戦の結果生じた損失の責任は「ドイツ及びその同盟国」にあることが明記され、232条ではドイツに完全な補償を行う能力が無いことを確認した上で、損失に対する補償を行うべき事が定められた。ヴェルサイユ条約では一定の物納による賠償が定められた。賠償金については占領軍費用として1921年4月30日までに200億金マルクに相当する物資・金を支払い、400億マルクの無記名債券を発行することが定められたが、賠償金総額については決定されず、独立の賠償委員会を設置して後に協議されることとなった。また、116条によってロシアの賠償請求権は留保され、正式政府の成立後に協議されることとなった[21]
補償対象

補償対象はヴェルサイユ条約244条第一付属書によって定められた。

戦争行為による戦死者及び負傷者に対する補償

ドイツとその同盟国が原因である民間人死者・負傷者への補償

ドイツとその同盟国によって行われた民間人に対する不法行為への補償

捕虜虐待への補償

負傷した連合国軍人に対して連合国が支払う恩給金額

兵士・捕虜とその家族に対して連合国が支払う恩給金額

ドイツとその同盟国による民間人強制徴用に対する補償

連合国の非軍事物損害への補償

ドイツとその同盟国が連合国民に課した罰金・賦課金の補償

船舶賠償

244条第三付属書では戦争によって発生した商船や漁船に対する補償を定めている。これによりドイツは、ドイツ船籍にある総トン数1600トン以上の商船全て、1000トン以上の船舶の半分、トロール船や漁船の4分の1の所有権を連合国側に引き渡すことになった。
物納・家畜賠償


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