この項目では、イングランドとフランスの戦争について説明しています。後に発生したイングランドの内乱については「第2次バロン戦争」をご覧ください。
時1215 - 1217
場所イングランド
発端諸侯らがジョン王と政府に対し
造反したこと
結果フランス軍による侵攻が失敗し
最終的には王権を認めて帰国した
衝突した勢力
アンジュー帝国派造反諸侯
フランス王国
スコットランド王国
指揮官
ケント伯ヒューバート・ド・バー
第一次バロン戦争(1215年 - 1217年)は、イングランド王国における内戦。ジョン王に対して、ロバート・フィッツウォルター(en:Robert Fitzwalter)らが率いる造反諸侯が戦った。また王太子ルイ(将来のルイ8世)が指揮するフランス軍が諸侯派を支持した。この内乱の原因は、ジョン王が1215年6月15日に調印したマグナ・カルタの承認と遵守への拒絶と、フランス王太子の野心である。また、王太子ルイは反乱諸侯らがジョン王と和解した後も戦争を長引かせた。第一次侯伯戦争ともいう。 ジョン王は、1215年6月、彼の指導力のなさや専制的な支配に耐え切れなくなった有力諸侯らによって、「諸侯の要求条項」(The Articles of the Barons)に無理やり署名させられた。そして、1215年6月15日に国璽が押された。その代わり、1215年6月19日、諸侯はジョン王に対して忠誠を誓った。取り決めを記録した正式な文書は、6月15日、王国の大法官庁によって作成された。これがマグナ・カルタのオリジナルである。国法(The law of the land)がマグナ・カルタを表すための重要な言葉であり、王の気ままな意思に反対するものとなっている。 1215年のマグナ・カルタには、理論的に王の権力を制限する著名な条項として、61条の「保証条項」(security clause)が存在した。この条項は25名の諸侯の集団が、いつであっても実力で王に逆らうことを許すものであり、中世の封建社会の法的システムでは「差押さえ」(distraint)と呼ばれる一般的なものであったが、これ以前において王に対して適用されることはなかった。また、ジョン王も、この取り決めに本気で応じるつもりもなかった。1215年の夏から数ヶ月がすぎても状況は進展せず、反乱諸侯と王およびその支持者たちとの間で戦争が始まった。 マグナ・カルタの承認問題に端を発したこの戦争は、イングランドの王座を巡る戦争へと変化する。造反諸侯は、戦力的な不利を打開すべく、フランスのフィリップ尊厳王の息子、王太子ルイに助けを求めた。この当時、ノルマン・コンクエストから150年ほどしかたっておらず、イングランドとフランスの関係は後々のような単純な敵対関係ではなかったのである。現代に残る史料、『ウェイバリーの年代記』は王太子ルイがイングランド侵攻のために招聘されたことについて、「外敵によって略奪されている王国を守るため」であった、という明確な表現をしている。 ルイは、1215年11月、ロンドンを防衛するために騎士による派遣団を送った。この時点において父親たるフランス王や教皇からの反対があったのにもかかわらず、彼はあからさまなこの「侵略行為」について同意していた。1216年5月21日、サネットの海岸防衛兵は水平線のかなたに帆影を発見し、翌日、ジョン王とその軍は、ルイの率いる侵略軍がケントの沿岸に上陸する様子を目にすることになった。ジョン王はサクソン人の中心であるウィンチェスターに逃亡することを決意したため、ルイはロンドンまでの行進についてほとんど抵抗を受けることがなかった。
目次
1 背景
2 出来事
2.1 王太子ルイの招聘と歓迎
2.2 第一次ドーバー包囲
2.3 ウィンザーとロチェスターの包囲戦
2.4 ジョン王の死
2.5 ルイの失敗
2.6 和平
3 ルイ8世の王位
4 脚注
5 資料
6 外部リンク
背景
出来事
王太子ルイの招聘と歓迎