第一次バルカン戦争
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2009年4月)

原文と比べた結果、この記事には多数の(または内容の大部分に影響ある)誤訳があることが判明しています。情報の利用には注意してください。正確な表現に改訳できる方を求めています。

第一次バルカン戦争
バルカン戦争

第一次バルカン戦争後にバルカン諸国が得た領域とセルビアとブルガリアの戦争前の秘密条約による拡張線

1912年10月8日 - 1913年5月30日
場所バルカン半島
結果バルカン同盟の勝利、ロンドン条約

衝突した勢力
 オスマン帝国
援助国
オーストリア=ハンガリー帝国バルカン同盟
ブルガリア王国
ギリシャ王国
モンテネグロ王国
セルビア王国
援助国:
ロシア帝国
指揮官
ナーズム・パシャ
ゼキ・パシャ,
エサド・パシャ
アブドゥッラー・パシャ
アリ・ルザー・パシャ
ハサン・タフスィン・パシャ

ミハイル・サヴォフ
イヴァン・フィチェフ
ヴァシル・クチンチェフ
ニコラ・イワノフ
ラトコ・ディミトリエフ
ゲオルギ・トドロフ
アンドラニク・オザニアン コンスタンティノス1世
パナギオティオス・ダンギリス
パヴロス・クントゥリオティス
ニコラ1世
ダニロ皇太子
ミタル・マトリノヴィッチ
ヤンコ・ヴコティッチ
ラドミル・プトニク
ペータル・ボヨヴィッチ
ステパ・ステパノヴィッチ
ボジダル・ヤンコヴィッチ
戦力
当初336,742人[1]ブルガリア 370,000人
セルビア 220,000人
ギリシャ115,000人
モンテネグロ 44,000人

第一次バルカン戦争(だいいちじバルカンせんそう)は、1912年10月から1913年5月まで行われた、オスマン帝国に対するバルカン同盟セルビアモンテネグロギリシャブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は、兵員数ででも戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。
背景イングランドの地図製作者エドワード=スタンフォードによるバルカン半島の民族構成地図

バルカン諸国はオスマン帝国支配下のルメリア(いわゆる東ルメリ自治州)、トラキアマケドニアをめぐって緊張関係にあったが、19世紀半ば以降に列強が介入したため、いくぶん緊張は和らいでいた。列強はこれらの地域に対し、キリスト教徒多数派を保護し現状を維持しようとしていたのである。1867年までにセルビアモンテネグロは事実上独立しており、1878年のベルリン条約でその独立が確認された。1908年7月に青年トルコ革命が発生し、青年トルコ党がスルタンに対して停止中の憲法を復活するよう要求すると、オスマン帝国の支配力には疑問が持たれるようになった。

セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナに対して領土的な野心を持っていた。ところが1908年10月のボスニア危機でオーストリアがこの地域を正式に領土に組み込んだ。このため、セルビアの野心は阻止されることとなった。そのためセルビアはこの時期、南方に拡大しようと考えた。一方青年トルコ党は、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合後、ボスニアのムスリムをオスマン帝国に移住させようとした。オスマン当局により移住の適地としてムスリムが少ない北マケドニアが選ばれたが、この選択こそが帝国に破滅をもたらした。移住者たちはその地域に住んでいたアルバニア人ムスリムとたやすく融合した。1912年春にアルバニア人たちが反乱を起こすが、その前後の暴動にボスニアからの移住者たちも参加した。政府軍のアルバニア人たちの中からも反乱に荷担するものが出た。

1912年5月、アルバニア人騎兵部隊(ハミディ)の反乱軍が、元スルタンのアブデュルハミト2世を復位させようとして、青年トルコ党軍をスコピエから追放し、南方マナスティル(現在のビトラ)まで進出した。彼らに対し青年トルコ党は1912年6月、広大な地域への影響力ある自治を認めざるを得なかった。セルビアはアルバニアのカトリックやハミディの反乱を軍事的に援助し、主立ったリーダーたちには秘密裏にエージェントを送り、この反乱を戦争の口実にした。セルビア、モンテネグロ、ギリシア、ブルガリアは、すべて、1912年のアルバニア人反乱が起こるよりも前からオスマン帝国に対する攻撃の可能性について議論していた。そしてセルビアとモンテネグロの公的な合意は3月7日に調印されていた。1912年10月18日、セルビアのペータル1世は宣言を発した。「セルビアの人々へ」と題した宣言は、セルビア人と同様にアルバニア人を支援するということを宣言していた:トルコ政府は、自国の市民に対する義務について何ら関心がないことを明らかにしたうえ、どんな不満や提案に対しても聞く耳を持とうとはしない。事態は収拾がつかなくなっており、だれもがヨーロッパにおけるトルコの状況に満足していない。それはセルビア人にもギリシア人にも、そしてアルバニア人にとっても耐えがたいことになっている。よって、偉大なる神の名において、私は我が勇気ある軍隊に、我々の同胞を解放しよりよい未来を保証するよう命じた。かつてのセルビアにおいて、私の軍隊はキリスト教徒のセルビア人だけではなくムスリムのセルビア人とも出会うだろう。だが彼らは等しく我々の親愛なる同胞である。また、キリスト教徒とムスリムのアルバニア人とも出会うだろう。彼らアルバニア人たちと我が民族は13世紀の間喜びと悲しみを分かち合ってきたのだ。彼らすべてに我々は自由、親愛、平等をもたらそう。

同盟を模索する際、セルビアはブルガリアとの契約を取り決めるつもりでいた。この二国の合意には、オスマンへの勝利の暁には、ブルガリアはクリヴァ・パランカオフリドの線よりも南のマケドニアすべてを受け取ることと規定されていた。ブルガリアは、シャール山地の北(すなわちコソヴォ)であればセルビアの拡大を認めることになっていた。その間の地域は「係争中」であると合意された;オスマン朝との戦争が勝利に終わったときにロシアのツァーリによって仲裁されるだろう。戦争が進むに従って明らかになったのは、ペータル1世王が宣言したのと違って、アルバニア人たちがセルビアを解放者とは見なしていないし、セルビア軍がアルバニア人に対する友好という彼の宣言を守ることもなかった、ということだった。

1885年にブルガリアは東ルメリアとの合同のためのクーデターを成功させた。そのため、それ以降ブルガリアはその民族的統一が実現するという夢を見るようになった。この目的のため、ブルガリアは大きな軍隊を作り上げ、「バルカン諸国のプロイセン」と自認するようになった。とはいえブルガリアには単独でオスマン朝との戦争に勝利する力はなかった。

ギリシアでは、軍の将校たちが1909年8月にクーデターを起こし、進歩的なエレフテリオス・ヴェニゼロス政府が樹立された。ヴェニゼロスはクレタ島で見せた政治手腕を買われていたのである。彼らはまた、1897年の希土戦争でのオスマン朝による敗北から立ち直ることを目指した。これを目的として、フランス人軍事顧問団による緊急の軍隊再構成が行われていたが、バルカン諸国での戦争が勃発したため中断した。ギリシアをバルカン同盟に参加させようという議論が行われたが、ブルガリアはセルビアとのマケドニアについての取引と全く違い、領域獲得の区分についてギリシアと約束を取り交わすことを一切拒否した。ブルガリアは外交政策によってセルビアがマケドニアを要求するのを制限しようとしていたが、一方でブルガリア軍ならギリシア軍よりも先にエーゲマケドニアの大部分と重要都市サロニカ(テッサロニキ)を占領することができると信じていたのだ。

1911年にイタリアはトリポリタニア、すなわち現在のリビア侵略に乗り出していた(伊土戦争)。それは即座にエーゲ海にあるドデカネス諸島占領につながった。イタリアがオスマン帝国に対し重大な軍事的勝利をおさめたので、バルカン諸国もオスマンに対する戦争に勝利できるだろうという想像を抱いた。1912年の春や夏までに、キリスト教徒のバルカン諸国は軍事同盟のネットワークを作り上げ、それらがいわゆるバルカン同盟になっていった。

列強、特にフランスとオーストリア・ハンガリーはこれらの同盟に対し戦争勃発を思いとどまらせようとしたが、失敗した。9月の終わりに、同盟とオスマン帝国は軍隊を動員した。まず、モンテネグロが9月25日(ユリウス暦)/10月8日に宣戦布告を行った。受け入れようのない最後通牒をオスマン宮廷に10月13日に送ったあと、ブルガリア、セルビア、ギリシアも10月17日に帝国に宣戦した。おおよそ200-300人のジャーナリストが世界中から訪れ、1912年11月にバルカン諸国における戦争を取材した。
戦闘態勢と計画第一次バルカン戦争前のバルカン半島

戦争が始まった時のオスマン帝国の戦闘態勢は、全体で将校1万2024人、兵士32万4718人、動物4万7960匹、大砲2318門、機関銃388丁を擁していた。ここから全部で将校920人と兵士4万2607人が、師団を離れた任務を与えられ、残りの将兵29万3206人が、4軍に分けられた。[2]反対に拡大する戦争前の秘密の解決策が続く中でスラヴ系の3ヶ国連合(ブルガリア、セルビア、モンテネグロ)は、戦争の努力(サンジャク戦区におけるセルビアとモンテネグロ、マケドニア戦区とトラキア戦区におけるブルガリアとセルビア)を整合する大規模な計画を導き出した。ブルガリア軍の大半(34万6182人)は、トラキアのオスマン帝国軍9万6273人と守備隊約2万6000人と戦いながらトラキアを目指していた。[3]残りのオスマン帝国軍約20万人が[4]、セルビア軍(セルビア側のセルビア軍23万4000人とブルガリア軍4万8000人)やギリシャ軍(11万5000人)と戦いながらマケドニアに配備され、ヤニナ (トルコ語名:ヤニヤ、現ヨアニナ、エピルスのギリシャ軍に対するもの)とシュコドラ (古名:スクタリ、トルコ語名:イスケンデリイェまたはイシュコダラ、現シュコダル、北アルバニアのモンテネグロ軍に対するもの)の要塞都市周辺の独立守備隊と共にワルダルとマケドニアのオスマン帝国軍に分割された。
ブルガリア

ブルガリアは大規模で良く訓練され装備の整った軍隊を擁する4ヶ国で最大の軍事大国であった。[5]ブルガリアは人口430万人から全部で59万9878人を動員した。[6]ブルガリア陸軍は9個歩兵師団、1個騎兵師団、1116個砲兵隊を擁していた。[5]最高司令官は実質的な指揮権は副長ミハイル=サヴォフ将軍の手にあったとはいえブルガリア王であった。黒海沿岸での作戦を制限されていたブルガリアは、水雷艇6艇という小規模な海軍も所有していた。[7]

ブルガリアの戦争目的は、トラキアマケドニアであった。3個軍から構成され、トラキアに主要な部隊を配備していた。第1軍(7万9370人)は3個歩兵師団を擁するヴァシル・クチンチェフ将軍が指揮し、トゥンジャ川沿いに作戦を行う目的でヤンボルの南に配備されていた。第2軍(12万2748人)は2個歩兵師団と1個歩兵旅団を擁するニコラ・イワノフ将軍が指揮し、第1軍の西に配備され、強力なアドリアノープル(現エディルネ)要塞を捕獲することを任務としていた。計画によると、第3軍(9万4884人)はラトコ・ディミトリエフ将軍が指揮し、第1軍の東と後方に配備され、オスマン軍側からは見えない騎兵師団により援護されていた。第3軍には3個歩兵師団があり、ストランジャ山を横切りクルク・キリセ (ブルガリア語名:ローゼングラト、現クルクラーレリ)要塞を奪取することを任務としていた。第2師団(4万9180人)と第7師団(4万8523人)は、西トラキアと東マケドニアでそれぞれ作戦行動を行う独立した任務を与えられていた。
セルビア

ブルガリア軍より数の上ではかなり劣っていたが、セルビア軍の強さは、無視できないものであった。セルビアは前国防大臣ラドミル・プトニクの実戦的な指揮の下で砲228門、10個歩兵師団、2個独立旅団、1個騎兵師団を擁する約23万人を(人口291万2000人のうち)動員した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:88 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef