第一次チャールストン港の戦い
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第一次チャールストン港の戦い
First Battle of Charleston Harbor
南北戦争

攻撃に向かう装甲艦の列、1863年4月7日

時1863年4月7日 (1863-04-07)
場所サウスカロライナ州チャールストン
結果南軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
サミュエル・フランシス・デュポンP・G・T・ボーリガード
部隊
南大西洋封鎖戦隊サウスカロライナ第一軍事地区軍
戦力
装甲艦2隻
モニター艦7隻装甲艦2隻
陸上大砲385門
被害者数
戦死1名
負傷21名
砲艦1隻沈没戦死5名
負傷8名

第一次チャールストン港の戦い(だいいちじチャールストンこうのたたかい、: First Battle of Charleston Harbor)は、南北戦争1863年4月7日サウスカロライナ州チャールストン近くで起きた戦闘である。攻撃したのは北軍海軍の装甲戦闘艦9隻の戦隊であり、その中には当初のUSSモニターの改良艦7隻が含まれていた。この攻撃に協力するはずだった北軍陸軍が戦闘に加われなかった。サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将の指揮下にあった艦船が、チャールストン港入り口近くにあった南軍の防御陣地を攻撃した。ワシントンD.C.海軍省役人は、重砲を搭載した戦闘艦で伝統的な砦の防御力を下げさせるという新しい形態の戦闘の有効性を示す圧倒的な成功を期待していた。

デュポンは、7隻のパセーイク級モニター艦と、強力なUSSアイアンサイド、さらに実験的装甲艦であるUSSケオククを任されていた。海軍の資源がチャールストン港への攻撃に向けられたので、他の海軍作戦は中断させられていた。長い準備期間を要した後、潮の状態と可視性で攻撃に進むことが可能と判断された。速度の鈍いモニター艦が午後のかなり遅くに戦列に付き、潮の向きが変わったときに、デュポンは作戦を中断しなければならなかった。砲撃は2時間足らず続き、戦隊は港防衛の第一列ですら突破できなかった。戦隊の1隻が沈みかけた状態となり、他の艦船も損傷を受けて、戦隊は後退した。戦隊乗組みの水兵1名が戦死し、21名が負傷した。一方南軍は5名が戦死、8名が負傷した。デュポンは戦隊の艦長達と相談した後、それ以上攻撃してもほとんど成功の可能性が無いと判断した。よって翌朝の戦闘再開を止めた。
背景
北軍

1862年後半、さらに1863年初期になっても北軍の戦況はあまりうまく行っていなかった。南軍の北バージニア軍アンティータムの戦いで撃退されたものの、比較的損傷を受けずに逃れ、北軍ポトマック軍にはフレデリックスバーグの戦いで大敗を味わわせ、その後のポトマック軍は混乱状態になった。西部戦線では、ミシシッピ川の支配を巡る作戦が、ミシシッピ州ヴィックスバーグを前にして膠着状態になっていた。南軍は実際にテキサス州ガルベストンを奪取していた。北部では厭戦気分が明らかであり、秋の選挙は戦争遂行に関する住民投票と見なされ、共和党離れが見えていた。エイブラハム・リンカーン政権はその野戦指揮官達に全国的な士気をあげるような成功を勝ち取るよう大きな圧力を掛けはじめていた。海軍省がチャールストン港攻撃を急ぎ始めたのもこうした雰囲気にあった時だった[1]

1863年、南北戦争の戦いの中心は大半がバージニア州と内陸だったので、チャールストンの軍事的重要性は既に限られたものになっていた。封鎖突破船の母港としての価値は、アラバマ州モービルジョージア州サバンナと比べてそれほど大きくはなく、すべてノースカロライナ州ウィルミントンの陰に隠れていた[2]


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