第一政党制_(アメリカ合衆国)
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第一政党制(だいいちせいとうせい、: First Party System)は、政治学者や歴史学者が使う政治モデルであり、アメリカ合衆国に存在した政党制の中でおおまかに1792年から1824年までを画するものである。大統領連邦議会および州の政治の支配を巡り、アレクサンダー・ハミルトンがその創設に大きく寄与した連邦党、およびトーマス・ジェファーソンジェームズ・マディソンが結成した共和党(民主共和党)の2つの全国的政党が競い合った。連邦党は1800年まで優勢だったが、その後は共和党が全国を支配した。

ジェファーソンは当時の政党制を分析して、1798年2月12日に次のように記していた。アメリカ合衆国の中で2つの党派が起こった。一方は政府を守り立てていくべきであると考えている。もう一方は政府は憲法に規定する共和制と比して強くなりすぎてイギリス政府のようになっており、それ故に曖昧な場合には立法権を所持しやすいと考えている。前者は連邦主義と呼ばれ、貴族的あるいは中央集権的でもあり、イギリス政府で対応する党派のまさに同じ定義に従ってトーリー的でもある。後者は共和主義者、ホイッグジャコバン党アナーキスト、組織破壊者などとも呼ばれ、これらの言葉は多くの人々に馴染みのあるものである[1]
概要

両党は国政の中で生まれたが、後に全州で支持者や有権者を集める方向に広がった。連邦党は実業界に訴え、共和党はプランテーションや農場の経営者に訴えた。1796年までに全州の政治はこの2党にほとんど分割され、党機関紙や党員集会が有権者を動員する特に有効な手段になった。

連邦党は財務長官ハミルトンの財政制度を推進した。それは州の負債の連邦政府による肩代わり、これら負債を払うための関税制度、金融を担当する国定銀行を重点とし、金融業と製造業を奨励していた。共和党は南部のプランテーションが地盤であり、強い行政権に反対し、現存する陸軍や海軍に敵対的であり、連邦政府に憲法で与えられる権限を制限付きで解釈するよう要求し、ハミルトンの経済政策については強く反対した。おそらくさらに重要なのは外交政策であり、連邦党はイギリスが政治的に安定し、貿易でも密接な繋がりがあったのでイギリスを好み、一方共和党はフランスフランス革命を賞賛していた。ジェファーソンはイギリスの貴族制的な影響力が共和制を浸蝕するのを特に怖れた。イギリスとフランスは1793年から1815年まで、一時の休戦期間を除き交戦状態にあった。アメリカの方針は中立であり、連邦党はフランスに敵対し、共和党はイギリスに敵対した。1794年のジェイ条約は2つの党と各州での支持者達を決定的に動かすことになった。ジョージ・ワシントン大統領は公式には無党派だったが、概して連邦党を支持しており、連邦党はワシントンを象徴的な英雄に仕立てていた[2]

第一政党制はいわゆる好感情の時代(1816年-1824年)に終わり、連邦党は幾つかの孤立した地盤があるだけに縮小し、共和党は統一性を失った。1824年から1828年には第二政党制が現れ、共和党はアンドリュー・ジャクソンの派とヘンリー・クレイの派に分かれた。アンドリュー・ジャクソンの派は1830年代に民主党となり、ヘンリー・クレイの派は後にホイッグ党に吸収された。
連邦主義者対反連邦主義者、1787年-1788年「ザ・フェデラリスト」を参照

1787年、ジョージ・ワシントン、アレクサンダー・ハミルトンおよびベンジャミン・フランクリンに率いられる指導的民族主義者がフィラデルフィア憲法制定会議を招集した。この会議では新しい憲法を策定し、各州の批准を求めて送付された(それまでの連合会議がこの手続きを承認した)。この過程でジェームズ・マディソンが最も有名な人物となり、「アメリカ合衆国憲法の父」と呼ばれることが多い[3]

憲法の批准のために、新憲法を支持しマディソンとハミルトンに率いられる「連邦主義者」と、新憲法に反対する「反連邦主義者」の間に激しい議論が起こったが、『ザ・フェデラリスト』を著し、自身の反対勢力を「アンチ・フェデラリスト」として反主流派であるかの如きイメージ戦略の浸透に成功した連邦主義者が勝利し、憲法は批准された[4]。反連邦主義者は(イギリスのように)強い中央政府の理論的危険性を深く心配し、いつかは州の権限を奪うのではないかと怖れた[5]。こうした背景もあり、州議会における批准は順調とは言い難く、ノースカロライナ、ロードアイランドでは批准が憲法発効に間に合わなかったほか、西部を中心にかろうじて賛成多数を得た州もあった[6]

「連邦党」という呼び方は1792年から1793年に始まり、1787年から1788年の新憲法支持者とは多少異なる構成員と全く新しい構成員、さらにはパトリック・ヘンリーの様な新憲法に反対した者までが加わった。マディソンは憲法草案の大半を起草しており、1787年から1788年には連邦主義者だったが、ハミルトンの政策と新しい「連邦党」には反対した[5]
ワシントン政権、1789年?1797年

アメリカ合衆国の初めは政党が無かった。間もなく財務長官のアレクサンダー・ハミルトンや国務長官のトーマス・ジェファーソンのような傑出した人物の周りに党派が生まれた。ジェファーソンは強力な連邦政府というハミルトンの遠大な構想に反対した。ジェファーソンは特にハミルトンが憲法を柔軟に解釈し、国定銀行までその中に含めたことに反対した。ワシントン大統領は1792年に対抗馬も無く再選された。

ハミルトンはおよそ1792年から1793年に連邦党として出現した支持者の全国的なネットワークを造り上げた。これに対応してジェファーソンとマディソンは1792年から1793年に民主共和党として出現した連邦議会と各州における共和派支持者のネットワークを造り上げた。1792年の選挙は政党を基盤にする形に似たもので争われた最初の機会になった。大半の州では、連邦議会の選挙はある感覚で認識されており、ジェファーソンの戦略家ジョン・ベックリーは「財務省と共和派の利益の間での闘争」と位置づけた。ニューヨーク州では、知事選挙がこの位置づけで争われた。候補者はハミルトン派のジョン・ジェイと現職のジョージ・クリントンであり、クリントンはジェファーソンと共和党に与していた[7]

1793年、最初の民主共和協会が結成された。この協会はルイ16世を処刑したばかりのフランス革命を支持し、概してジェファーソンの側を支持した。「民主」という言葉はこの協会のために市民ジュネが提案したものであり、連邦党はジェファーソンの友人達を「民主主義者」と冷笑した。ワシントンがこの協会を非共和者だと非難した後、協会はほとんど消えていった。

1793年、ヨーロッパでイギリスとフランスがそれぞれの同盟国を巻き込んだ戦争が持ち上がった。ジェファーソン一派はフランスに味方し、1778年に結んだ仏米同盟条約がこの時も有効であると指摘した。ワシントンのその全閣僚一致の内閣(ジェファーソンも入っていた)は、この条約はアメリカ合衆国が戦争に参入するよう拘束していないと判断した。ワシントンはその代わりに中立を宣言した。

1794年にイギリスとの戦争の可能性が出てきたとき、ワシントンはイギリスとの交渉にジョン・ジェイを派遣した。このジェイ条約は1794年遅くに調印され、1795年に批准された。これで戦争の可能性を回避し、アメリカ合衆国とイギリスの間に生じていた問題の全てではないが多くを解決させた[8]。ジェファーソン一派は、この条約が貴族制的イギリスとその連邦主義同盟者にあまりに多くの影響を与えすぎることで共和制を弱める恐れがあると言って、激しく条約を非難した[9]。歴史家のウィリアム・ニスベット・チェンバーズに拠れば、1794年から1796年にかけて行われたジェイ条約に関する激しい議論のために、政治を全国的なものにし、連邦議会内の党派を全国的な党にしたと言っている。ジェファーソン一派はこの条約と戦うために、首都の指導者と州、郡、町の指導者、活動家および大衆追随者の間の活動に協調性を造り上げた[10]

1796年アメリカ合衆国大統領選挙でジェファーソンはジョン・アダムズに挑戦し、落選した。


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