笠置山勝一
[Wikipedia|▼Menu]

笠置山 勝一


基礎情報
四股名笠置山 勝一
本名仲村 勘治
愛称智将
インテリ力士[1]
打倒双葉作戦本部長
生年月日1911年1月7日
没年月日 (1971-08-11) 1971年8月11日(60歳没)
出身奈良県生駒郡(現:奈良県大和郡山市
身長173cm
体重101kg
BMI33.75
所属部屋出羽海部屋
得意技左四つ、寄り
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴192勝175敗10休(31場所)
幕内戦歴134勝139敗10休(22場所)
優勝十両優勝1回
データ
初土俵1932年2月場所(幕下付出
入幕1935年5月場所
引退1945年11月場所
引退後年寄・秀ノ山
趣味人形蒐集[2]
備考
金星1個(羽黒山1個)
2013年7月21日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

笠置山 勝一(かさぎやま かついち、1911年1月7日 - 1971年8月11日)は、奈良県生駒郡(現:奈良県大和郡山市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は仲村 勘治(なかむら かんじ)。最高位は西関脇
来歴
早大出身力士、角界入り

1911年1月7日奈良県生駒郡(現:奈良県大和郡山市)で生まれる。小学生の時から相撲で活躍し、小学6年生では大阪毎日新聞社が主催した奈良県学童相撲で優勝する実力を身に付けた。奈良県立郡山中学校では相撲を離れて柔道部に所属していたが、1928年常陸山谷右エ門の叔父である内藤高治の推薦で出羽海部屋へ入門した。しかし、学業を修了していなかったため、東京・早稲田中学校へ転校して部屋から中学校へ通う生活を続けていた。早稲田中学校でも柔道部に所属したが、大きな身体を見込まれて早稲田第一高等学院文科へ進学してからは大学の相撲大会にも出場した。

それでも相撲部の合宿や部屋の巡業に参加し始めると学業に支障をきたすようになったので、1930年早稲田大学専門部政治経済科へ転入し、相撲でも大会で団体優勝に貢献するなど、全国的に名が知れ渡った。出羽海からは「大学を卒業するまでは本場所の土俵を踏まないように」と厳しく言われていたが、春秋園事件によって職業力士への転向を申し出ると出羽海が特別に初土俵を許可したことで、1932年2月場所において幕下付出初土俵を踏んだ。四股名の笠置山は出羽海が命名した。

1933年1月場所で新十両昇進を果たすが、早稲田大学を卒業する前に昇進していたため、関取として卒業式には正装である大銀杏を結って出席した。1935年1月場所では11戦全勝での十両優勝を果たし、同年5月場所で新入幕を果たした。それ以降も順調に出世し、1937年1月場所で関脇へ昇進した。三役は通算で3場所務めたがいずれも10敗と大きく負け越したため、1場所で平幕へ降格となった。
打倒双葉の参謀役

双葉山定次が40連勝、50連勝と徐々に連勝記録を伸ばしていくと、出羽海部屋一門では「打倒双葉」を合言葉に、双葉山に勝利して連勝記録を止めるための対策・研究に明け暮れる日々が続いていた。その参謀役を任されたのが笠置山で、雑誌「改造」(1938年6月号)に「横綱双葉山論」として双葉山に勝利するための対策を論文にして寄稿した。この説は、1939年1月場所4日目に自らが授けた作戦(双葉山の右目が失明状態であることから、双葉山の右足を狙って掬い投げ、または外掛けで倒す)によって安藝ノ海節男が連勝を止めたことで実証された。

笠置山自身は本場所で双葉山には一度も勝利できなかったが、「立浪三羽烏」と呼ばれた3力士の残り2名(名寄岩静男羽黒山政司)には強く、1944年1月場所では羽黒山を得意とする二枚蹴りで破る(金星を獲得)など活躍した。

理路整然とした語り口から、入幕直後から言論活動の依頼が多く舞い込み、巡業先での講演や雑誌への寄稿等をこなしていた。
引退後?晩年

1945年11月場所の番付に名前を残したまま、現役を引退、年寄・秀ノ山を襲名した。断髪式は母校・早稲田大学の大隈講堂で行ったが、現役時代に早稲田大学から化粧廻しを送られており、それを締めた写真も現存している。

引退後も頭脳明晰の笠置山には多くの仕事や依頼が舞い込み、1955年の決まり手70手の制定や、公認相撲規則の条文化を行った。時津風(双葉山)理事長の片腕として活躍し、協会のスポークスマンとしてアナウンサーと間違われるほどの流暢明快な語り口で、物言い協議の場内説明役を担当した。1960年12月には日本相撲協会が財団法人化35周年を記念した式典が行われ、時津風理事長へ挨拶状を手渡すこととなっていたが、事務室に置き忘れたために慌てて取りに戻る一幕もあった。

笠置山の妻が常陸山の孫娘にあたるため、1960年出羽海(常ノ花)が亡くなった際には部屋の後継者とされたが、血縁を理由に辞退して出羽ノ花國市に継承させ、自らは譲る形になった。1971年8月11日胃癌で死去、60歳没。亡くなる直前まで、雑誌「相撲」に自伝小説を連載していた[1] が、笠置山の急死によって未完に終わった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef