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笠置寺
山門
所在地京都府相楽郡笠置町笠置山29
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分12.6秒 東経135度56分29.3秒 / 北緯34.753500度 東経135.941472度 / 34.753500; 135.941472
笠置寺(かさぎでら)は、京都府相楽郡笠置町笠置山にある真言宗智山派の寺院。山号は鹿鷺山(しかさぎさん)。本尊は弥勒菩薩。開基は大海人皇子または大友皇子と伝える。歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ日本仏教史上重要な寺院である。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。
歴史
概要本尊の弥勒磨崖仏(現在は光背の形が残るのみ)
笠置寺は京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする。笠置は奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる地であり、地理的にも歴史的にも南都(奈良)との関わりが深い。また、平城京の宮殿や寺院などの建築用材は木津川の上流から舟で運ばれたとされており、笠置は水陸交通の要地であった。
笠置寺は磨崖仏(自然の岩壁に直接彫り刻んだ仏像)の巨大な弥勒菩薩を本尊とする寺で、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。笠置山は標高は300メートルに満たないが、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地であったと推定されている。日本では太古から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えないカミの宿る場所とされていた。笠置山はこうした巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ次第に仏教寺院としての形を整えていったものと推定されている。 当寺の創建については諸説あって定かでない。『笠置寺縁起』には白鳳11年(682年)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』巻11には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について次のように伝えている。天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)は、ある日馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ無事に助かった。大友皇子は次に来る時の目印として自分の笠をその場に置いていった。これが笠置の地名の起こりであるという。その後、天智天皇3年(664年)に皇子が再び笠置山を訪れ誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。
創建伝承