笠置シヅ子
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笠置 シヅ子
映画「銀座カンカン娘1949年)」より
基本情報
出生名亀井 静子(かめい しずこ)
別名三笠 静子
笠置 シズ子
生誕1914年8月25日
出身地 日本
香川県大川郡相生村
(現在の東かがわ市
死没 (1985-03-30) 1985年3月30日(70歳没)
日本
東京都中野区弥生町[1]
立正佼成会附属佼成病院
ジャンル歌謡曲
活動期間1927年 - 1985年
レーベル日本コロムビア
共同作業者服部良一

笠置 シヅ子(かさぎ しづこ、1914年大正3年)8月25日 - 1985年昭和60年)3月30日)は、日本歌手女優。本名は亀井 静子(かめい しずこ)。
概要

戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。躍動感に乏しい楽曲と、直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、黒人音楽の影響を受けた躍動感のあるリズムの楽曲と、派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在になった。日本の戦後歌謡曲の原点でありながら、時代に左右されない明るい魅力を持つ笠置の楽曲は、今日に至るまでたびたびカバーされ、日本のポップスJ-POPに多大な影響を与え続けている。「東京ブギウギ」(1947年)、「買物ブギー」(1950年)等、数多くのヒット曲を持つ。
来歴
生い立ち笠置シズ子の実母と養母の出身地である香川県引田町の街並み

香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)黒羽で郵便局員であった三谷陣平と[2]、三谷家で陣平の母親から和裁を習うために家事手伝いとして同居していた谷口鳴尾(なお)との間に生まれる。しかし、豪農で名家であった三谷家が鳴尾と陣平の結婚を許さず、さらに翌年には陣平は産まれてきたシズ子を認知することなく25歳の若さで早逝し、鳴尾も三谷家から帰されて、やむなくシズ子を連れて実家の引田町に戻っていた。同じ頃に大阪市福島区などを販売する小売店を営業していた亀井音吉の妻女亀井うめが、出産のために引田町の実家に帰省していたが、うめは世話好きの人情家で、鳴尾の母乳の出が悪くいつも泣いているシズ子を不憫に思って、母乳の提供を申し出た[3]。シズ子も貰い乳をしているうちに次第にうめになつき、うめも情が移ってきたことから鳴尾に自分が養女としてもらい受けることを申し出、生活が苦しかった鳴尾も仕方なく応諾した。そして産まれてから半年した頃に、シズ子は亀井家に入籍して亀井ミツエ(後に静子に改名)となって、産まれたうめの実子である正雄と一緒に大阪に行くこととなった[4]

大阪では養父となった音吉が待っており、シズ子を引き取ることはうめが単独で決めたことで初めは戸惑っていたが、子供が兄の頼一と今回誕生した正雄と男の子ばっかりであったので、次第に情が移っていった。うめの方はむしろ貰い子のシズ子の方を可愛がっており、産まれた時から身体が弱かった正雄が3歳で夭折すると、さらにシズ子を溺愛するようになって、5歳になった頃から踊りや三味線を習わせているが、これがのちのシズ子の人生を決定づける要因となった[5]。1918年(大正7年)には第一次世界大戦に起因する米騒動が勃発、米を扱っていた亀井家は暴徒の襲撃を逃れるため、一家で自宅店舗から避難を余儀なくされ、この暴動で米を扱うことに嫌気がさした音吉は小売店を閉店し、近所で売りに出ていた銭湯を購入して営業を開始した[6]。この間に亀井家は福島から中津十三川口南恩加島と転居を繰り返し、シズ子は在学6年間で5回の転校を余儀なくされた。その間名前も、ミツエから志津子に改名しさらに静子へと漢字を変更している[7]

その頃シズ子は習っていた踊りに加えて、歌も常に小学校の通信簿で最優秀の「甲」の成績をとり続けるぐらいにうまく、家業の銭湯の脱衣所で歌と踊りを披露して近所の人気者となって、13歳のときにはその評判を聞きつけた芝居小屋から熱望されて、浪花節の芝居に子役で出演もしている[8]。このころまでには兄の頼一も弟の正雄に続いて病気で夭折していたが、弟の八郎が誕生しており、亀井家の子供はシズ子と弟八郎の二人となっていた。1927年昭和2年)、尋常小学校卒業後の進路に悩んでいたシズ子は担任教諭からの「無理に上の学校は勧めない。器用だから芸をみっちり修業するのもいいし、記憶が良いから看護婦になるのもよかろう」という進路指導を受けると[9]、1919年(大正8年)に設立され、卒業生が宝塚歌劇団で華やかなステージを披露していた宝塚音楽歌劇学校[10]の話を近所の人から聞いてその気になり、うめも後押ししたことから宝塚音楽学校の受験を決意した[8]。尋常小学校を卒業したシズ子は、宝塚音楽歌劇学校を受験、筆記試験と面接は難なく合格し、近所の人たちからは「あんたはきっと大丈夫や」と太鼓判を押されていたが、最後の体格試験で、上背が小さく(145cm)極度の痩せ型だったためと気管が弱いと判断されて不合格となり、これまでの自信を打ち砕かれ、宝塚音楽学校から漏れ聞こえてくる少女たちの歌声を聞きながらトボトボと帰っていった[8]
大阪松竹少女歌劇団時代1929年公演「第4回春のおどり開国文化」で踊る笠置シズ子(中央)

シズ子はこれにめげることはなく、宝塚に対抗していた「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校である日本歌劇学校の前身)への入所を決意し、受験ではなく、松竹楽劇部の事務所に直接乗り込むと、「わては宝塚でハネられたのが残念だんね」「なんぼ身体がちっちょうても芸にかわりはないところを見せてやろうと思いまんね」「どんなことがあっても辛抱しますさかい、先生、どうかお願いします」と直談判した[11]。そのシズ子の大声での直談判を聞いていた、シズ子の最初の師となる松竹楽劇部音楽部長松本四郎が「そないにしゃべれるのやったら、身体もそう悪いことないやろ」と特例で入所を認めた[12]。どうにか入所することができたシズ子であったが、当時の大阪松竹楽劇部は封建的で、入所したての研究生は先輩たちから小間使いのように酷使されていた。特にまともに受験せずに入所したシズ子は酷使され、先輩たちの2時間前には出勤し、掃除洗濯だけでなく、先輩の化粧道具の整備、舞台衣装の裁縫、果てや買い物の言いつけまで何でもやらされた。気の利いていたシズ子は、先輩たちから「豆ちゃん」というあだ名で呼ばれて、新たに後輩が入ってきても「豆ちゃんでないと用が足れへん」と言われ重宝され、5年間も下働きをさせられた[13]

シズ子はあまりの下働きのきつさに何度も辞めようと考えたが、持ち前の気の強さで歯を食いしばって耐えた。そんなシズ子を松本は特に目をかけて、少しでも身体が大きくなるように食肉加工場から牛の血液をもらってシズ子に飲ませていたほどであったが、シズ子もまた松本の恩に応えようと必死に努力をした。初舞台は入所から半年後となり、もらった役は「日本新八景おどり」で華厳の滝の水しぶきの妖精役であった。このときに近所の物知りの人からの発案で「三笠静子」という芸名を名乗った[12]。シズ子の同期生や後輩には、のちに大阪松竹少女歌劇を支えることになる、秋月恵美子芦原千津子、柏ハルエ、美鈴あさ子(のちアーサー美鈴)らがいたが、過酷な競争が繰り広げられるなかで、シズ子は世話をしていた先輩には細かな気遣いをしても、同期生や下級生にはすこぶる冷淡であり、相手から挨拶されても返事をしないことすらあった[14]

同年には松竹楽劇部が東京進出を果たしたが、その第一期生のうちの一人が水の江瀧子であり、東京松竹楽劇部の応援公演のため初上京したシズ子は初めて瀧子と会っており、先輩のシズ子は瀧子に舞台化粧をしてあげている。このことを鮮明に記憶していた瀧子は、後年にお互いに大スターとなってからも交流を続けている[15]


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