笠戸丸
[Wikipedia|▼Menu]

笠戸丸
「笠戸丸」
基本情報
船種貨客船
いわし工船
ミール工船
クラスPotosi級貨客船
船籍 イギリス
ロシア
大日本帝国
所有者太平洋汽船会社(Pacific Steam Nav. Co.)
ロシア義勇艦隊(Russian Volunteer Fleet Association)
海軍省
大阪商船
鹽崎與吉
東洋興業
新興水産
太平洋漁業
日本水産
日本海洋漁業統制
運用者 太平洋汽船会社
ロシア義勇艦隊
 大日本帝国海軍
東洋汽船
大阪商船
鹽崎與吉
東洋工業
新興水産
太平洋漁業
日本水産
日本海洋漁業統制
建造所ウィガム・リチャードソン造船会社
母港リヴァプール/マージーサイド州
オデッサ/オデッサ州
呉港/広島県
大阪港/大阪府
釜山港/釜山広域市
東京港/東京都
姉妹船ガリシア[1]
信号符字JMFU→PHNM→JRFJ
IMO番号10179→朝1360→38754(※船舶番号)
改名Potosi→Kazan→笠戸丸
経歴
起工1899年9月1日
進水1900年6月13日
除籍1945年
最後1945年8月9日被弾沈没
要目
総トン数6,011トン
排水量不明
垂線間長122.07m
型幅15.24m
型深さ11.58m
高さ7.31m(水面から船橋最上端まで)
17.06m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー石炭専燃缶
主機関ウィガム・リチャードソン造船会社製三連成レシプロ機関 2基
推進器2軸
最大出力3,586IHP
最大速力14.4ノット
航海速力10.0ノット
航続距離10ノットで3,840海里
旅客定員一等:36名
二等:40名
三等:451名
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)。
テンプレートを表示

笠戸丸(かさとまる、かさどまる[3])は、明治時代後期の日露戦争から第二次世界大戦にかけて移民船や漁業工船などに使われた日本の鋼製貨客船である。前身はロシア義勇艦隊の「カザン」。

明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や台湾航路用の船舶として用いられた。ハワイブラジルへ移民が開始された時に移民船として使われたことでもよく知られている。

その後漁業工船に改造され、漁業会社を転々とする。最後は、貨客船として最初に籍を置いた国であるロシア帝国の事実上の後継国にあたるソ連軍の手によって、第二次世界大戦終結直前にカムチャツカ沖で爆沈されるといった数奇な運命をたどった。
船歴
「カザン」

1899年2月17日、太平洋汽船会社が汽船2隻をウィガム・リチャードソン社に発注した[1]。そのうちの一隻、362番船が後の「カザン」、「笠戸丸」である[4]。362番船は1899年9月1日に起工、1900年6月13日に進水して「ポトシ」と命名されたが、その後「ポトシ」はロシア義勇艦隊に売却され、9月には「カザン」と改名された[5]。1900年9月17日、「カザン」はニューカッスルからオデッサへ向けて出航した[6]

「カザン」はオデッサ・ウラジオストク間の航路に就航し、兵員輸送などを行った[7]。1904年2月3日に兵士を乗せて旅順に入港した「カザン」は同地で日露戦争開戦を迎えた[8]

1904年2月9日、日本艦隊の砲撃で「カザン」は1発被弾[9]。砲弾は爆発しなかったが、火災が発生した[10]。その後「カザン」は負傷者を受け入れており、7月18日にはジュネーブ条約に準じた赤十字病院船に指定された[11]。11月1日に病院船業務廃止が命じられたが、12月には病院船業務を再開していたようである[12]。12月30日、「カザン」の鋼鉄製ボートに6名が乗り、重要書類を持って旅順を脱出した[13]
「笠戸丸」
「笠戸丸」となる

旅順陥落後、日本海軍は病院船業務廃止の命令書を根拠として「カザン」を戦利品とすることとし、1905年5月12日に日本側は「カザン」を訪れて戦利品とすることを告げ、同日日本船籍となった[14]。その後離礁作業が行われ、6月3日付で「笠戸丸(かさとまる)」と命名、本籍を呉鎮守府と定められた[15]。6月8日、橋本又吉郎中佐以下の回航員の手によって旅順を出港[16]。大連、佐世保を経て6月21日に呉に到着した[17]

「笠戸丸」は陸軍の引き揚げに使用されることとなり、8月14日に陸軍に供与され、12月から1906年7月までの間に大連・宇品間を少なくとも6回往復した[18]。「笠戸丸」の運航は三井物産合名会社に委託された[18]

その後、維持費がかかることから日本海軍は「笠戸丸」や同じく戦利品の「楠保丸」は民間に貸し出すことにし、一か月の使用料として「笠戸丸」4200円強、「楠保丸」500円強を払うと申し出た東洋汽船に対して7月17日に両船の維持が命じられた[19]
移民輸送

東洋汽船に受け取られた「笠戸丸」は長崎から香港へ向かって清国移民を乗せ、それから神戸でハワイへ向かう日本移民を乗せた[20]。さらに横浜でも移民を乗せると、「笠戸丸」は1906年8月30日にハワイへ向け出航した[21]。そのとき「笠戸丸」は1000人程度の移民を乗せていた[21]。この時の航海ではハワイの後、ペルーやチリ北部へ向かっている[22]

次の航海では「笠戸丸」は香港へ向かった後、1907年1月5日にペルーへ向かう森岡商会と明治移民合資会社扱いの移民452人を乗せて横浜を出港した[23]。この時、清国移民が乗船していたかは不明である[23]。「笠戸丸」は2月8日にカヤオに到着[23]。それからセロ・アスールを経て2月26日にモエンドに着いた[24]。カヤオでは移民の逃亡事件が発生[25]。6人が逃げ去り、3人は復航の「笠戸丸」に密航して日本に戻った[26]

ホノルルを経て日本に戻った「笠戸丸」は5月8日に神戸から香港へ向かい、香港では清国移民782人を乗せ米穀3000トンを積み込んだ[27]。6月5日、横浜出港[28]。この航海時の熊本移民合資会社提出のメキシコ・イキケ行き渡航者名簿には268人が載っている[28]。「笠戸丸」はサリナクルスへ直行し、それからペルーへ向かった[29]

続く1907年10月23日横浜発の航海では東洋移民会社と熊本移民会社扱いの294名を運んだ[30]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef