笠原和夫_(脚本家)
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笠原和夫 (野球)」とは別人です。

かさはら かずお笠原 和夫
プロフィール
誕生日1927年5月8日
出身地 日本東京府日本橋
死没日 (2002-12-12) 2002年12月12日(75歳没)
死没地 日本東京都武蔵野市
主な作品
テレビドラマ『東京大地震マグニチュード8.1
映画『日本侠客伝シリーズ
博奕打ち 総長賭博
日本暗殺秘録
仁義なき戦い
仁義なき戦い 広島死闘篇
仁義なき戦い 代理戦争
仁義なき戦い 頂上作戦
県警対組織暴力
二百三高地
大日本帝国
226
浪人街
受賞
京都市民映画祭
脚本賞
1969年日本暗殺秘録日本アカデミー賞
優秀脚本賞
1981年二百三高地
1983年大日本帝国勲四等瑞宝章1998年
その他
著書
『映画はやくざなり』
『破滅の美学』
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笠原 和夫(かさはら かずお、1927年5月8日 - 2002年12月12日)は、日本脚本家東京府日本橋出身。日本大学中退。
経歴

1927年(昭和2年) - 東京府日本橋生まれ。

1945年(昭和20年) - 海軍特別幹部練習生に志願、広島県大竹海兵団に入団。

1946年(昭和21年) - 日本大学三島予科に入学。

日本大学法学部新聞学科入学。社会人になってからは、米軍労務者、喫茶店経営など職を転々とした[1]

1954年(昭和29年) - 東映に入社、宣伝部に配属される。

1956年(昭和31年) - 東映の社内シナリオコンクールで1位入選。以後プロの脚本家として執筆を始める。

全共闘など学生運動が激しかった1960年代後半には、『博奕打ち 総長賭博』が、三島由紀夫に激賞された[2]

1969年(昭和44年) - 『日本暗殺秘録』で京都市民映画祭で脚本賞を受賞。

1973年(昭和48年)から始まる『仁義なき戦い』の脚本が高く評価された。

1976年(昭和51年) - 東映を退社。フリーの脚本家となる。

1981年(昭和56年) - 『二百三高地』で日本アカデミー賞の優秀脚本賞を受賞。

1983年(昭和58年) - 『大日本帝国』で日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。

1998年(平成10年) - 勲四等瑞宝章受章[3]

2002年(平成14年) - 12月12日西窪病院にて肺炎のため死去。享年76。

裸電球を一つを灯した部屋に壁に作品の時間軸を記した巻物を壁に貼り執筆した。
人物

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}第二次世界大戦後まもない頃に、大日方傳の経営していたキャバレーで従業員兼用心棒をしていた[要出典]。[4]


晩年にも日本の政治などの現状を憂いており、「戦後、暗殺事件がもっとあったなら、今よりは良い社会になっていたかもしれない」と発言[5]
評価・与えた影響など

井筒和幸は仁義なきシリーズや県警対組織暴力、日本暗殺秘録などを絶賛するほど笠原を傾倒しており[6]、笠原の未映画化シナリオである「沖縄進撃作戦」の映画化に長年、考えていると岩波書店の「「世界」臨時増刊「沖縄 何か起きているのか」」のインタビューでも答えている。


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