初代「笑福亭松之助」の「笑福亭松鶴 (6代目)」とは別人です。
二代目 .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}笑福亭(しょうふくてい) 松之助(まつのすけ)
1955年正月、「宝塚若手落語会」
前列左から2人目が松之助[注釈 1]
本名明石(あかし) 徳三(とくぞう)
生年月日1925年8月6日
没年月日 (2019-02-22) 2019年2月22日(93歳没)
出生地 日本・兵庫県神戸市湊西区[2]
死没地 日本・兵庫県西宮市
師匠五代目笑福亭松鶴
弟子明石家さんま
明石家のんき
出囃子新曲浦島
二代目 笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ、本名:明石 徳三(あかし とくぞう)[6][7]、1925年〈大正14年〉8月6日[2][8][6] - 2019年〈平成31年〉2月22日[9][10][11][12])は、日本の落語家。
喜劇俳優や劇作家としても活動した。 タレントの明石家さんまの師匠として一般的に知られている。落語家としては関西を拠点に上方落語を演じ、寄席で演じられる軽演劇の俳優、劇作家としても長く活動していた。所属事務所は吉本興業(1959年4月 - 1961年3月、1967年3月[8] - 、所属歴は後述)。 2000年代には死去に至るまで、上方芸能界における最年長の落語家であった[13][注釈 2]。 愛称は「松ちゃん(まっちゃん)」[14]。血液型はAB型[6][2]。おっちゃんVSギャル等のバラエティクイズ番組に出演したときには「マッピー」という愛称がつけられたこともあった。 兵庫県神戸市湊西区(のちの兵庫区)で、父・徳松(とくまつ)と母・ちょうのあいだに、長男として生まれる[8][2]。父親は大阪出身の建築関係の職人だった[15]。かつてのインタビュー集では、俗に「手伝い職(てったいしょく)」と呼ばれる建築作業の補助的な部分を担当する職人[16][17]と語ったが、晩年の自伝では父親が左官や道路舗装だけでなく、建物移築や解体の請負にも携わったと明かしている[15]。母親は兵庫県印南郡曽根町(現・高砂市)の商家出身で、徳三が生まれた時点では無店舗の髪結いだった[18][19][20]。生家は湊川神社の西側、有馬道と多聞通の交差点付近[21]で繁華街の新開地が「目と鼻の先[17]」にあった。 徳三は幼い頃から芸能好きの母に連れられ、新開地の寄席や芝居小屋[18][19] や映画館[22]に通った。演芸では特に奇術を好んだ[23]ほか、漫才では横山エンタツ・花菱アチャコにあこがれた[24]。橘尋常小学校1、2年生の頃、同級生の家に大量にあった初代桂春團治のレコードを聞かせてもらったのが、落語の面白さを知るきっかけだったという[25]。また「向かいの家のおばさん」に雑誌『キング』を借り、連載されていた落語速記を読みふけった[22]。同誌に掲載された柳家金語楼の新作落語『夜明の鐘』をクラスメイトの前で演じたという[26]。その一方、仕事を継がせたがった父親に、小学校入学前から建設現場に連れて行かれ、さまざまな建築作業を仕込まれた[15]。両親は熱心な浄土真宗の信徒であり、生家にほど近い神戸布教所の日曜学校に通わされた[15]。 尋常高等小学校を卒業した1940年の4月[8]、徳三は校長の推薦により[27]「養成工として[注釈 3]」三菱電機神戸製作所 17歳のときに父親が死去[31]。徳三は家計を支えるため、「反戦の医者[31]」から「肺浸潤」との嘘の診断書を書いてもらって長期休職し、健康保険組合から日給7割相当の療病手当を受給しながら[31]アルバイトを始めると、「ニュース館」と呼ばれたニュース映画専門の映画館に映写フィルムを自転車で運んだ[28] [31]。ある時、徳三をニュース館に誘った友人から「余興屋」(よきょうや[注釈 5])のアルバイトを紹介された[32]。この頃の徳三は奇術に本格的に熱中しており、その余興屋の社長から奇術師のジャグラー都一
概要
略歴
生い立ち