笑ってる場合ですよ!
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笑ってる場合ですよ!
番組生放送が行われていた
新宿スタジオアルタ
ジャンル帯番組 / バラエティ番組
構成高平哲郎
ディレクター山縣慎司
三宅恵介
永峰明
佐藤義和
荻野繁
小林豊
出演者B&B
ツービート
紳助・竜介
のりお・よしお
ヒップアップ
明石家さんま
春風亭小朝
山田邦子
九十九一
劇団東京乾電池
ほか
ナレーター岩尾良二水島裕(DJ)
テーマ曲作者石田勝範
国・地域 日本
言語日本語
製作
プロデューサー横澤彪・大野三郎
撮影地スタジオアルタ
製作フジテレビジョン

放送
放送局フジテレビ系列
映像形式4:3
音声形式モノラル
放送国・地域 日本
放送期間1980年10月1日 - 1982年10月1日
放送時間平日 12:00 - 13:00
放送分60分

番組年表
関連番組もう一度笑ってる場合ですよ!
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『笑ってる場合ですよ!』(わらってるばあいですよ)は、フジテレビ系列1980年10月1日から1982年10月1日まで平日(毎週月曜日 - 金曜日)の12:00 - 13:00(JST)に生放送されていたバラエティ番組

森田一義アワー 笑っていいとも!』の前身番組にあたる。
概要

本番組は、前番組『日本全国ひる休み』をリニューアルし、フジテレビ全体やランチタイム番組の改革を図るべく企画された新しい平日昼のお笑い番組であった。

漫才ブームの仕掛け人である、横澤彪がプロデュースし、毎日スタジオアルタからの公開生放送形式をとった[1][2]

司会B&B島田洋七洋八)、レギュラーのツービートビートたけしきよし)や明石家さんま紳助・竜介島田紳助松本竜介)ら、当時の若年層に人気のあった漫才ブームの中心的タレントが続々と登場し、フジテレビの看板ランチタイム番組に育てあげ、番組スタイルが後番組『笑っていいとも!』に受け継がれていくことになる。また、出演者は同じく横澤プロデュースの『オレたちひょうきん族』にも引き継がれた。

番組タイトルの由来は、当時視聴率が全般的に低迷していたフジテレビに関し、横澤に上司が「今、フジテレビは笑っている場合じゃないだろ!!」と言ったことにヒントを得たもの。

後のバラエティ番組よりも過激な企画が多く、特にツービートが担当した「勝ち抜きブス合戦」は大ひんしゅくを浴びた[3]。また放送当時のフジテレビ会長だった鹿内信隆が「食事中の視聴者に見せる番組じゃない」と番組内容を批判したことや、開始2年目の1982年には漫才ブーム自体が終息した影響とも言われる。信隆の番組批判を受け、長男で当時副社長だった鹿内春雄(1982年6月から会長就任)が番組終了を決断。10月期からの『笑っていいとも!』放送開始が春雄によって決定された。

番組開始からしばらくおいて、1週間の主なコーナーなどを編集してまとめ、それをスタジオに招いた観客と一緒にB&Bが見ながら進行する番組として『もう一度笑ってる場合ですよ!』という総集編番組が日曜日にスタートしている(関東ローカルで放送がスタートし、後にテレビ静岡など数局が同時または時差でネット)。この形態は後番組『笑っていいとも!』に於ける『笑っていいとも!増刊号』に引き継がれた。
出演者・番組末期(1982年4月 - 最終回)

末期の1982年4月以降、B&Bが総合司会から月曜日の司会に縮小し、残りを各曜日別司会・レギュラーになった。
月曜日

B&B

太平サブロー・シロー

火曜日

ツービート

山田邦子

水曜日

紳助・竜介

ヒップアップ

木曜日

春風亭小朝(開始初期)

明石家さんま

のりお・よしお

金曜日

ザ・ぼんち

九十九一

マギー司郎

※レギュラーが休暇や地方公演などで不在の場合は片岡鶴太郎甲斐智枝美.すがぬま伸らが代役を務めた。そして、明石家さんま・西川のりお島崎俊郎は後番組『笑っていいとも!』にて再登板を果たした。
番組フォーマット
オープニング

司会のB&Bの即席漫才から始まり、観客全員が「笑ってる場合ですよ!」とタイトルコールした後出演者全員が手拍子で登場。ナレーション(岩尾良二水島裕、スタジオの上部にあるブースにいた)による出演者紹介の後、再びタイトルコール → 提供表示(一部地域のみ) → CM → 最初のコーナー ※●は末期のコーナー
B&Bのコーナー

フジテレビほか一部のネット局ではこのコーナーの途中で下部に提供クレジットの字幕が流れ、以降はPT枠になっていた。

月曜日:一発ギャグ勝負(視聴者投稿) → 私もレポーター → 奥様ダジャレですよ → 不明 → ●B&Bのホンマかいな!

火曜日:もうすぐ結婚式(結婚直前のカップルが登場・カップル本人による再現ドラマもあった)

水曜日:B&B昼のいこい(※)

木曜日:誰でものど自慢(●末期は月曜に移動)

金曜日:不明

日替りコーナー

月曜日:
ザ・ぼんちの物まねグランプリ - 『クイズグランプリ』形式でものまねをするコーナー。井手らっきょいっこく堂がこのコーナーで芸能界入りした。●末期では金曜に移動。 → ●底抜けトンチ教室 - NHKラジオ『とんち教室』と日本テレビ底ぬけ脱線ゲーム』を合わせたようなコーナー。レギュラーメンバーと落語家が対決していたが、数か月で終了。

火曜日:ツービートのロック&ブス - ビートたけしが足立区バンドをバックにロックナンバーを歌った後、勝ち抜きブス合戦(素人が登場しどちらがブスか競いあう)に突入[1]。 → ●きよし・邦子の栄養料理学入門 - ビートきよしと栄養士の資格を持つ山田邦子の料理コーナー。 酒井玲子先生がハッスルしていた。●タケちゃんの恋人交換 → 夫婦交換 → マネージャー交換 ●きよしはどこだ(袋に入ったきよしはどこ?)

水曜日:紳竜の料理好きやねん - 島田紳助が毎回玄人はだしの料理の腕前を披露。できあがった料理をB&Bと共に葉書を紹介しながら会食。※ → ●紳助式肉体蟻地獄(挑戦コーナー)&葉書紹介 → ●紳竜にの一家団らん(出演者全員でコント仕立てで送る) ●ヒップアップのザ・グレートショー(ヒップアップによる有名アーティストのパロディーコーナー)※末期では水曜のみ演芸コーナーが無かった ●あの人に聞け!

木曜日:春風亭小朝のちょっと教えて(雑学コーナー)→明石家さんまの「減点マネージャー」(NHK三波伸介の「減点パパ」のマネージャーとタレント版。似顔絵担当は、おかし家あられ。) → ●若妻の告白・私はだまされた(さんま、のりお・よしおによる模擬裁判、最末期では人生相談に)

金曜日:のりおよしおのウグイス道場 → のりお・よしおの「この男に愛の手を」 → ●九十九一のクイズ&ゲーム → 根暗バンザイ(視聴者参加のコーナー、イモ欽トリオも出演した)

東京乾電池のコーナー

劇団東京乾電池柄本明ベンガル綾田俊樹高田純次・小形雄二・岩松了田岡美也子松金よね子角替和枝)によるコントコーナー。番組スタート時から1982年3月までは「日刊乾電池ニュース」が毎日行われていたが、1982年4月のリニューアル以降は月・水・金曜日に新企画が開始され、乾電池ニュースは火・金曜日のみとなった。東京乾電池は拠点にしていた渋谷ジァン・ジァンがある公園通りに、長い観客の列が出来ていたことに目を付けたフジテレビのスタッフが劇団ごと起用[4]。座長の柄本明は既に俳優業が多忙で出演しなかったが、他のメンバーはほとんど全員が出演した[4]。演劇ファンの間では人気があったとはいえ、全国的な知名度はないに等しかったが、空前のお笑いブームで、B&Bツービート紳助・竜介といったパワフルな芸人に混じりつつ、東京乾電池は、時事ネタをもとにした寸劇をそれぞれの得意な笑いのトーンで展開して知名度を上げていった[4]。「桶川、北本、鴻巣!」と叫ぶ「桶川コール」など、当時の漫才師や、それ以前に流通していたザ・ドリフターズクレイジーキャッツなど、音楽を経由したものとも異なる笑いを浸透させ、徳永京子は「『笑ってる場合ですよ!』が1980年にスタートしたのは、80年代の演劇を示唆する出来事だった」と評している[4]

後番組『笑っていいとも!』にも東京乾電池メンバーや、劇団東京ヴォードヴィルショーが、同様に出演している。 

月曜日:日刊乾電池ニュース - 乾電池メンバーと大橋恵里子(後期は大滝裕子北川まゆみ)が演じる時事コント(かつてこの枠で放送されていた『おとなの漫画』と同形式)→月曜のれん劇場

火曜日:日刊乾電池ニュース

水曜日:日刊乾電池ニュース→ベンガルの交番日記

木曜日:日刊乾電池ニュース

金曜日:日刊乾電池ニュース→笑ってる一家 - 乾電池メンバーと桂木文によるヤクザ一家のコント。

お笑い君こそスターだ!

将来お笑いをリードしようとする若手を育成するため日本テレビ系列の『お笑いスター誕生!!』に対抗したお笑いコンテストコーナー。タイトルは『スター誕生!』に対抗してフジテレビで放送されていた『君こそスターだ!』に由来する。

このコーナーでは毎回アマチュア、あるいはプロでもまだブレークしていない無名のお笑いタレントに門戸を開放し、全国の視聴者からの支持が一定量集まれば合格で、これを5日間勝ち抜けばグランドチャンピオンとなるというものである。グランドチャンピオンに輝いた芸人が発表された後、天井に吊るされたくす玉が割れて大量の紙吹雪風船が降り、観客からの拍手・歓声で新たなスターの門出を祝福された。

コーナーからはヒップアップや山田邦子を始め、ダウンタウン(当時は「ひとし・まさし」、NSCの生徒であることには触れず)や、ザ・ホープ、ハイヒールモモコ(ダウンタウン同様、NSCの生徒であることを隠して出演)、そのまんま東(現:東国原英夫、当時は「オスカル・メスカル」)、大川興業、斉藤ゆう子(現・斉藤祐子)、越前屋俵太プリティ長嶋ポップコーンといった人材を輩出した。

後にフジテレビに入社する水口昌彦は、京都大学工学部電子工学科時代の1981年に、後に長崎放送アナウンサーとなる竹内淳と組んだ漫才コンビ「にっちもさっちも」で5日連続で勝ち抜き、11代目チャンピオンになっている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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