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メンバー哲夫
西田幸治
結成年2000年
事務所吉本興業
活動時期2000年 -
出身吉本興業オーディション
NSC大阪校15期中退(西田)
出会いお笑いのイベント
旧コンビ名たちくらみ(西田)
スキップ(哲夫)
現在の活動状況テレビ・ライブなど
芸種漫才
ネタ作成者両者(哲夫主導)
過去の代表番組笑い飯のおもしろテレビ
笑い飯・千鳥の舌舌舌舌
シャバダバの空に
トランジスタラジオくんなど
同期西田
烏龍パーク
清水けんじ
品川庄司など哲夫
ファミリーレストラン
風藤松原
えとう窓口(Wエンジン)など
公式サイト公式プロフィール
笑い飯(わらいめし)は、吉本興業に所属する哲夫と西田幸治からなる日本のお笑いコンビ。2人とも奈良県出身。M-1グランプリ2010王者、THE MANZAI 2012ファイナリスト。 ボケとツッコミが入れ替わる「Wボケ」漫才で脚光を浴びた[1]。石田明(NON STYLE)はこのスタイルについて「横山やすし・西川きよしが昔からやっていた」としながらも、「あそこまで徹底して、しかもあれだけ完成度の高いネタに到達したコンビはいなかった」と評した。石田は「発想とセンスの塊みたいに思われてますけど、実はベタ」「ベタをベタじゃなく見せる天才」ともコメントしている[1]。 哲夫は「昔の漫才を見ると両方ともボケているのが沢山あった」という認識から、温故知新という考えの下で現在のスタイルを生み出したと語っている[2]。 2000年7月に結成し、2001年より吉本興業(大阪本社、2002年より同本部)所属。所属への経緯について、インディーズでの活動中に第1回M-1グランプリの予選へ出場したことから吉本の目に留まり所属したとの情報があったが、実際はオーディションで入社している[3]。
メンバー詳細は「哲夫」および「西田幸治」を参照
哲夫(てつお、1974年12月25日 - )(49歳)
ネタ作り担当[注 1]、立ち位置は向かって右。奈良県桜井市出身。本名、中西 哲夫(なかにし てつお)。
西田 幸治(にしだ こうじ、1974年5月28日 - )(50歳)
立ち位置は向かって左。奈良県奈良市出身。一時期では、「西田」である。
芸風
略歴
エピソード
麒麟・千鳥とは当時のBaseよしもとを牽引していた仲間であり、ライバルでもあった。田村裕(麒麟)曰く「この(3組)中から誰か(M-1)獲ろうぜみたいな気持ちがあった」[4]。
2004年放送の『松紳』(日本テレビ)では異例の全編が笑い飯の回があり、「コイツら無茶苦茶、待遇ええやん」と島田紳助がコメントした。その際はM-1について「優勝しても出場し続けたい」と発言していた。2015年にM-1が復活した際には出場条件が「結成15年以内」と改められ、延長されたラストイヤーでの連覇も可能であったがエントリーはせず、哲夫が決勝での審査員として出演した。
ものまねコントをすることもあり、2011年放送の爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル(フジテレビ)ではMr.マリックのものまねで超魔術をネタにしたコントを披露した[注 2]。
M-1グランプリ
M-1グランプリでは、2002年から2010年にかけて9年連続の決勝戦進出を成し遂げており、「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれている。
2003年度から毎年“優勝候補”と呼ばれ続けていたが優勝を逃していたこと、ネタの傾向がスロースターターのため「ネタ時間4分」のM-1では圧倒的に不利だったこと、連続での決勝進出で年々観客や審査員のハードルが上がってしまったことなどから2008年度のM-1を前に紳助からは「もう優勝は難しいのでは」、松本からは『放送室』で「もうM-1に出ない方がいいのかもしれない」、高須光聖からは「初登場の時(2002年)に獲らせてあげるべきだった」と評されていた(2003年の優勝は笑い飯だと発言したこともあり、松本もこれに同調していた)。松本は同番組で笑い飯をジェロム・レ・バンナに例えたこともある[5]。
2人も毎年決勝に進んでは優勝を逃し続けることにうんざりしていたようで、哲夫は2007年放送の『アメトーーク!』にて「金のエンゼル・銀のエンゼルみたいに、5回決勝行ったら1回優勝になればいいのにと思っていた」と語っている。
出場回数が多くなるにつれ年々笑い飯の優勝を願う芸能人は増えていき、津田篤宏(ダイアン)は2010年放送の『千鳥のほっけいTV』にて笑い飯に優勝してほしい旨をコメントしている。また、指原莉乃が『HKT48のおでかけ』で2003年[注 3]のM-1の時に笑い飯を応援していたことを後藤に話していた[注 4]。一方で明石家さんまは、『さんまのお笑い向上委員会』にて「優勝しない方が箔がついた」とコメントした[注 5]。
2010年度までのシード組のエントリーNo.は、原則としてノーシード組よりも後ろに配置されたうえで五十音順に並んでいた。その中で毎回のように五十音順で最後になる笑い飯は、総エントリー数と同じ番号になるのが恒例であった。
優勝までの長い道のり
2002年
審査員の松本人志(ダウンタウン)は優勝したますだおかだよりも10点高い80点を付け、「何や? あの面白さ」[6]と高評価した。
最終決戦では2番手で「機関車トーマス」を披露したが、票の獲得には至らなかった。翌年の『放送室』にて、松本がフットボールアワーと笑い飯のどちらに投票するかを迷っていた旨をコメントした。哲夫はこの結果には未だに納得していないらしい[7]。
2003年
緩急をつけたスピードとオチまでに張り巡らされた完璧な伏線[7]が高く評価され、大会初の審査員全員から90点以上という高評価を受けた。この「奈良県立歴史民俗博物館」は、第5回の紹介VTRで「伝説のネタ」と称されている。ちなみにネタの最中、審査員である中田カウスの笑い声が入ったまま収録された[8][9]。審査委員長の紳助からは「100点でもよかったんですけどね。後の(順番のコンビの)ために99点(当時のM-1の個人最高得点)にしただけでね。去年は未完成だったけど今年は完成してる。感動しました」、松本からは「去年よりセンスそのままで技術がアップしているんですよね。凄い変わり方ですね、1年間で(司会の西川きよしも同調)」と絶賛された。ネタ後、後藤輝基(フットボールアワー)の顔を見てみると西田曰く「人殺しのような眼をしていた」らしい。岩尾望(フットボールアワー)は「笑い飯の直後だったらメンタル的にヤバかったかも。それくらい動揺した」と振り返っている[7]。
最終決戦では1番手で「かわいそうなぞう」を披露。7票中、紳助・松本・南原清隆(ウッチャンナンチャン)から3票獲得したが、他の審査員はフットボールアワーに票を入れたため、結果は3対4で2位となった。哲夫はネタ後に優勝は確実だと考えていたが、フットボールアワーのネタを見て諦めたという[7]。
2004年
アンタッチャブルと共に優勝候補へ挙げられ、意気揚々と臨んだものの5位に終わってしまった。哲夫は2002・2003年の高評価で今から思えばあぐらをかいていたと振り返っている[10]。また、制限時間が4分に設定されている中、約6分を要してネタを披露し、審査員のラサール石井からは「完全にネタを2つやっちゃってるんですよね」と言われてしまった。
2005年
非常に不利とされるトップバッターでありながら、そのまま上位3組に残るという大番狂わせを起こす。その際、小杉竜一(ブラックマヨネーズ)から 「ネタ何やんの?」と聞かれ、哲夫が「マリリン・モンローです」と答えたところ「あれか!?」と小杉は非常に驚いた。哲夫は「お化けみたいな漫才を持っている先輩がビビッてくれた」とモチベーションが上がったらしい[10]。
この大会から最終結果発表では審査員の投票が1人ずつ開票されていくスタイルとなり、7人中6人目まででブラックマヨネーズと3対3の同点であったが、最後の紳助がブラックマヨネーズへ投票していたため、またも1票差で優勝を逃した。後に哲夫は「パチンコみたいな演出で『ブラックマヨネーズ』が『笑い飯』に変わると信じていた」と語っている。最終決戦で披露したネタについて、千鳥からは「よく、あれ(2本目のネタ)を4分の漫才にできましたね」と称えられた[10]。また、大会後の記者会見で紳助は「笑い飯が初出場ならブラックマヨネーズと同点、もしくは笑い飯の勝ちだったかも」という趣旨の内容を述べている[11]。
2006年
暫定3位だった麒麟と1点差で敗退したため、決勝進出を果たした9大会の中で唯一最終決戦進出の暫定ボックスに座ることなく終わった。
決勝進出組発表記者会見で過去4年の順位を訊かれ「3位・2位・5位・2位です」と答えると、紳助は「まだ4位になってへんねや」と発言。それに対して哲夫は「普通1位(優勝)って言うんですよ」とツッコミを入れたが、結果的には紳助の発言通りに4位となってしまった。
2007年
哲夫曰く「積み上げ式のかなりゆったり目のネタ」[7]。審査員の松本からは「結局普通の漫才に戻ってしまった、(中略)スロースターターなので4分のネタにするにはああするしかなかった、考えすぎた」と評された[12]。
2008年
哲夫曰く「自分らのスタイルいじり」[7]。審査委員長の紳助の点数は、今大会での個人最高評点となる95点であったが、最終的に敗者復活のオードリーに敗れ、3年連続のファーストラウンド敗退に終わった。松本は後に「スロースターターと言われたことを意識したからか、前半はすごく良かったが後半の失速感がハンパなかった」[13]と評している。
2009年
「鳥人」が焼き鳥を食べながら現れる、小学校に転入したら出席番号はチキン南蛮だったという馬鹿馬鹿しすぎるボケ、同じ説明を繰り返すしつこさ、鳥の被り物を使えばつまらなくなるかもしれないネタを漫才としてやりきった話術[14]が高評価を生み、歴代3位の「668点」を記録、さらに紳助からM-1史上初かつ現時点で唯一である100点満点を得た。舞台袖で出番を待っていたハライチは、会場の大爆笑に押されてネタ合わせを中断してしまった[15]。