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日本の政治家竹越 与三郎たけこし よさぶろう
肖像写真
生年月日1865年11月22日
(慶応元年10月5日)
出生地 武蔵国本庄宿
没年月日 (1950-01-12) 1950年1月12日(84歳没)
死没地 東京都世田谷区用賀
出身校慶應義塾
(現・慶應義塾大学)
前職青年文学会
竹越 與三郎(たけこし よさぶろう、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和25年(1950年)1月12日)は、日本の明治から戦前昭和にかけての歴史学者・思想史家・殖民学者・政治家。衆議院議員・枢密顧問官・貴族院勅選議員・宮内省臨時帝室編修局御用掛、同編修官長などを歴任し、戦後に公職追放指定を受け、一切の職を辞任。位階は正三位、勲等は勲一等。号は三叉(さんさ)。
明治・大正・戦前昭和の3つの時代に渡り言論界をリード。日刊雑誌『世界之日本』主筆を皮切りに、「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」[1] を以て自由帝国主義に根差した独自の文明史観で多くの著述を行った。またイギリスのホイッグ史観の代表的歴史家のトーマス・マコーリーに影響を受け「新日本史」と「二千五百年史」を著述した竹越は「日本のマコウレー」と言われた[2]。
経歴竹腰与三郎
生い立ちは実弟。上京して中村敬宇に学び、明治14年(1881年)9月、慶應義塾に入学した[3]。翌年、福沢諭吉から時事新報社への入社を薦められ、在学中から新聞に執筆し始める。
明治16年(1883年)に新潟県柏崎出身の伯父・竹越藤平の養子となる。この年、時事新報社に入社するが官民調和の論調に反発して翌年退職する。その後、小崎弘道の勧めで群馬高崎教会に住んで英語塾を開く。明治19年(1886年)8月、小崎弘道よりキリスト教の洗礼を受ける。同年、前橋英学校の教員に招かれた。その後、『基督教新聞』や『大阪公論』の記者を務める。 その頃、湯浅治郎の紹介で徳富蘇峰と知り合い、民友社及び『国民新聞』の創刊の手伝いをする。明治22年(1889年)に竹越竹代と結婚した[4]。同年に正式に民友社に入ると、明治23年(1890年)2月1日の国民新聞創刊時より政治評論を担当、執筆した。この年の11月7日、オリバー・クロムウェルの伝記である『格朗?(クロムウェル)』を刊行して在野史家としてデビューを飾る。翌明治24年(1891年)7月より全3巻の予定で明治維新史を政治・外交・経済・宗教の側面より分析した『新日本史 伊藤博文、陸奥宗光、西園寺公望に見出されて高く評価されたが原敬、桂太郎、大隈重信とは対立した。その後、日清戦争を機に国粋主義に傾倒していった蘇峰を竹越が批判したことから対立し、明治28年(1895年)12月に民友社を退社する。 その後、再び時事新報社に入るが、陸奥宗光・西園寺公望らの世話を受けて、明治29年(1896年)に『世界之日本
國民新聞社
衆議院議員