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竹葉山真邦
基礎情報
四股名竹葉山 真邦
本名田崎 誠
生年月日 (1957-08-21) 1957年8月21日(66歳)
出身福岡県浮羽郡浮羽町
(現・同県うきは市、出生地は同県八幡市)
身長176cm
体重121kg
BMI39.06
所属部屋宮城野部屋
得意技突き、押し
成績
現在の番付引退
最高位東前頭13枚目(1986年9月場所)
生涯戦歴442勝402敗21休(95場所)
幕内戦歴11勝19敗(2場所)
優勝十両優勝1回
データ
初土俵1973年3月場所
入幕1986年9月場所
引退1989年1月場所
引退後年寄・中川→宮城野→熊ヶ谷→宮城野→間垣→退職
備考
元・宮城野部屋師匠
2023年6月1日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲
竹葉山 真邦(ちくばやま まさくに、1957年8月21日 - )は、福岡県浮羽郡浮羽町(現:同県うきは市、出生地は同県八幡市)出身で、宮城野部屋に所属した元大相撲力士。本名は田崎 誠(たざき まこと)。現役時代の体格は176cm、121kg。得意手は突き、押し。最高位は東前頭13枚目(1986年9月場所)。
現役引退後は、1989年6月から2004年8月までと、2010年12月から2022年7月までの2度にわたり宮城野部屋の師匠となり、横綱白鵬らを育成した。 幼い頃から相撲を始め、北九州市立黒崎中学校では相撲部がなかったため、野球部に所属した。 中学2年時に父親の知人から勧誘され、中学卒業と同時に宮城野部屋へ入門し、1973年3月場所にて初土俵を踏んだ。初土俵の同期には、後の関脇・高望山らがいる。 当初の四股名は、本名でもある「田崎」だったが、1974年3月場所前に「筑葉山」と改名。これは、故郷・福岡県の旧称のひとつである「筑後」と、師匠の現役名・吉葉山に因んでいる。 小兵ではあったが、立合いから強く当たって押し出す相撲を得意として着実に番付を上げ、1978年11月場所にて21歳で十両へ昇進した。 しかし、四つになると力が発揮できないという弱点から、同場所では6勝9敗と負け越して1場所で幕下へ陥落。その後、1983年1月場所で再十両昇進を果たすまで、4年以上幕下に低迷した。 その間、四股名を「筑葉山」から「竹葉山」に変えたが、これは当時の師匠であった9代宮城野(元小結・廣川)の助言による。 稽古熱心で、連日同じ立浪・伊勢ヶ濱連合の友綱部屋に通い詰め、幕内の魁輝との激しい稽古により力を付けた。1984年1月場所での3回目の十両昇進からは十両に定着し、1986年5月場所では自身初となる各段(十両)優勝を遂げ、同年9月場所で漸く入幕を実現した。初土俵から所要81場所での新入幕は歴代10位タイ、新十両昇進から所要47場所での新入幕は歴代1位のスロー記録となった。 その9月場所では6勝9敗と負け越し、十両へ陥落した翌11月場所では10勝5敗の優勝同点となる好成績を挙げて、翌1987年1月場所で再び入幕した。だが、同場所でも5勝10敗と大きく負け越して、幕内在位は結局2場所のみに終わった。 以降も調子が上がらず、1988年5月場所では幕下へ陥落した。以後、2度と関取の地位には復帰できなかった。 1989年1月場所12日目に現役引退を表明し、年寄・中川を襲名して、宮城野部屋の部屋付き親方に就任。なお、同場所直前に元号が昭和から平成に改元された為、竹葉山が平成初の引退・年寄襲名者となった。 しかし、同年6月に師匠である9代宮城野親方が急逝したため[注釈 1]、急遽10代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承した。以降、師匠として横綱・白鵬や前頭・光法などといった関取を育てた。 2004年7月に北の湖部屋の十両・金親が9代宮城野親方の娘と結婚して娘婿となって、引退し、11代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承することとなった。
来歴・人物
現役力士時代
現役引退・年寄襲名後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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