竹若拓磨
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たけわか たくま
竹若 拓磨
プロフィール
本名竹若 拓磨
[1]
性別男性
出身地 日本福岡県[2]
生年月日 (1971-03-22) 1971年3月22日(53歳)
血液型O型[3]
職業声優舞台俳優
事務所テアトル・エコー[2]
公称サイズ(時期不明)[3]
身長 / 体重171[2] cm / 57 kg
スリーサイズ87 - 73 - 87 cm

声優活動
活動期間1995年 - 2009年
ジャンル吹き替えアニメ
デビュー作兵隊(『甲鉄の意気地』)[4]
俳優活動
ジャンル舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

竹若 拓磨(たけわか たくま、1971年3月22日[3] - )は、日本声優舞台俳優テアトル・エコー所属[2]福岡県出身[2]
経歴
生い立ち

小さい頃は積極性と引っ込み思案を両方持った子供だったといい、親族などの人前でモノマネをすることが好きだったが、人見知りなところもあった[5]。一番はドリフで、小さい頃から加藤茶のモノマネが好きだった[5]。アニメや特撮もの、戦隊ものは人並みに見ていた[5]

中学時代は映画が好きになり、テレビで放送されていた映画を夢中で見ていた[5]。好きなジャンルはジャッキー・チェンなどのアクション映画[5]。ジャッキー・チェン、『ロッキー』などの映画はテレビで見たのが最初だったため、吹き替えの方の印象が強いが、吹き替えも字幕も両方好きだという[6]

一方、当時は演劇自体には興味がなく、学校に劇団の関係者が来て演劇をすることもあったが、そういった行事も観ていなかった[6]

高校進学時は決められた地域内で、実力に見合ったところに決めた[6]。この時は結構勉強していたが、自分の未来、将来を見据えてといった感じは全くなく、遊んでばかりいたという[6]

高校1年生の頃にテレビで放送されていた映画『アマデウス』の吹き替え版を見てから映画監督に憧れるようになった[7]。しかしなりたい職業はその時々変わっていたため、そこまで強い想いはなく、文集などでも一度も「役者になりたい」とは書いたことはなかったという[6]

表には出さなかったが、役者という具体的なものではなかったものの、表現したいという思いは心のどこかに隅の方にはあったという[6]。ただしそれをどういう方向でどういう風に出したらいいのかわからず、うだうだしていた感じだったという[6]。周囲にそういうことをしていた人物も全くおらず、口に出すのも恥ずかしく、それを表現する術も無知だった[6]。しかし小さい頃から、漠然と「自分は普通の勤め人にはならないだろうな」とは感じていた[6]

友人同士でもそういったことはあまり話しておらず、が好きな人物、バンドをしていた人物もいたが、彼らとは何となくつるんでいた感じだった[6]。しかし「いつか東京へ」という思いもあったため、「一回東京を見よう」と思い、高校時代に東京都に遊びに来たことがあった[6]。当時は、「東京も福岡も変わらないじゃん」という印象を受けていた[6]。大学への進学も、上京という選択肢は考えておらず、その当時はまだ演劇をしているというのは想像もできない時期だったという[6]。その頃も映画を観るのは変わらず好きであったが、テレビドラマには全く興味がなく、映画ばかり見ていた[6]。もしその当時テレビドラマを見ていたら、のちのち役者になってテレビに出たいと考えていたかもしれないが、見ていたのは外国映画ばかりだったため、「具体的なビジョンを描けなかったのだ」と思った[6]

大学は経済学部に進学[7]。しかし大学に行っても何をしていいのか分からず、1年目は大学に行ったり行かなかったりして単位をかなり落としていた[7]。「大学を辞めてこの中から早く抜け出したい」と思っており、精神的に苦しかった時期だった[7]。しかし「大学を辞めたら親に何されるかわからない」と踏みとどまり、辞めずに通っていた[7]。また、大学を辞めてから先のことも決まっておらず、踏ん切りがつかなかったというのもあった[7]

漠然と、「やっぱり映画関係の仕事に就きたい」とは思っていたが、その頃も具体的には描けなかった[7]。演劇やバンドをして表現をしている友人、知り合いもいたが、「よくやるな」ぐらいにしか思っていなかったという[7]。通っていた学部には留年が無く、単位がとれないと卒業できなくなるシステムだったため、大学4年生の時は単位を取るのに必死だった[7]。「ここまできたらやっぱり卒業しよう」と思い、毎日大学に通っていた[7]

就職活動のセミナーにも行っていたが、途中で止めてドロップアウト[7]。卒業はできたが、後に「単位が足りなくて卒業できない」という夢を見たりしているという[7]。途中で就職活動を止めたというのは、言い出せなかったが、髪を伸ばしていたため、両親も感づき一度少しぶつかったことがあった[7]。しかし普通の就職はどうしても考えられなかったという[7]。その後は「どうすればいいんだろう」と考えた結果、「だったら自分にやりたいことに近いということで、その後も広がりがもてるようなことをしよう」、「映画監督といってもすぐには無理だし、まして助監督も難しそう…」、「でも、そこに出演する側なら…」と思い付いたのが劇団だったという[7]

芝居については、やれそうなことの中で映画関係に一番近いような気がしていたという[7]。しかし芝居自体は見たことがなかったため、その頃、福岡に来ていた芝居を観に行っていたが、ピンと来なず、福岡の劇団も何カ所か観に行っていたが、それも同じで、「こうなったら、東京しかない」と思い、上京することには迷いはなくなったという[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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