竹田城
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この項目では、但馬国に存在した竹田城について説明しています。豊後国に存在した豊後竹田城については「岡城 (豊後国)」をご覧ください。

竹田城
兵庫県
本丸から望んだ南千畳
別名天空の城、虎臥城、安井ノ城
城郭構造梯郭式山城
天守構造不明(天守台有り)
築城主山名宗全伝承
築城年1431年(永享3年)(伝承)
主な改修者羽柴秀長赤松広秀(斎村政広)
主な城主太田垣氏、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀
廃城年1600年(慶長5年)
遺構石垣、堀、井戸など
指定文化財国の指定史跡
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度18分00秒 東経134度49分44秒 / 北緯35.30000度 東経134.82889度 / 35.30000; 134.82889座標: 北緯35度18分00秒 東経134度49分44秒 / 北緯35.30000度 東経134.82889度 / 35.30000; 134.82889
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竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城山城)。目次

1 概要

2 沿革

2.1 室町時代

2.2 戦国時代

2.3 安土桃山時代

2.3.1 竹田城の戦い

2.3.2 関ヶ原の戦い


2.4 昭和以降


3 歴代城主

4 城郭

4.1 天守

4.2 石垣

4.3 瓦

4.4 室町・戦国期遺構

4.5 支城


5 開城時間・観覧料

6 雲海

7 逸話

8 ギャラリー

9 ロケーションに使用した映像作品

10 交通アクセス

11 周辺

12 脚注

13 参考文献

14 関連項目

15 外部リンク

概要 城跡から雲海を眺望 竹田城の位置と周辺地形。中心の白丸が古城山

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川川霧により霞むことから、「天空の城[1]や「日本のマチュピチュ[1][2]とも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。

東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸二の丸三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

朝来市は2012年4月に竹田城の管理・宣伝をする「竹田城課」を新設した[3][4]。(2017年4月に観光交流課と文化財課に業務を移管され、現在は竹田城課は存在しない。)
沿革
室町時代

築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年 - 1443年)に丹波国播磨の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし、嘉吉3年(1443年)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。

この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441年)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前美作守護赤松満祐暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は但馬より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。

その後嘉吉3年(1443年)に赤松教政が、文安元年(1444年)に赤松満政が、康正元年(1455年赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。
戦国時代

応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468年)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。

その後も細川氏や赤松氏の脅威は去らず、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1488年)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522年)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。 黒井城の隅櫓跡 生野銀山
安土桃山時代

出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566年)の月山富田城の戦い毛利元就に一旦滅ぼされた。


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