竹田五郎
[Wikipedia|▼Menu]

竹田 五郎
1980年撮影
生誕1921年10月24日
日本 福岡県
死没 (2020-02-12) 2020年2月12日(98歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
航空自衛隊
軍歴1941 - 1945(日本陸軍)
1951 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1981(空自)
最終階級 陸軍大尉(日本陸軍)
統合幕僚会議議長たる空将(空自)
除隊後軍事評論家
テンプレートを表示

竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年大正10年〉10月24日[1] -  2020年令和2年〉2月12日[1])は、日本陸軍軍人航空自衛官、軍事評論家最終階級は陸軍では陸軍大尉航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長[2]
略歴

福岡県出身。福岡県立中学修猷館を2年で中退し、広島陸軍幼年学校陸軍予科士官学校を経て[3]陸軍航空士官学校(第55期)を卒業し、操縦の道に進んだ生粋のパイロット(操縦者)である。軽爆撃機の操縦課程修了後、飛行第90戦隊に配属され、1942年(昭和17年)9月から作戦に参加[4]九九式双軽爆撃機に搭乗し、中国戦線に従軍した[2]太平洋戦争後期には、飛行分科軽爆から戦闘に転科し、戦闘機操縦者として飛行第244戦隊に配属された。第244戦隊では三式戦闘機「飛燕」五式戦闘機(キ100)に搭乗し、首都防空の任務についた。空襲の都度出撃し、B-29を1機撃墜している[3]。ある時は夜間戦闘中に被弾し、松戸飛行場に不時着した際、片翼は穴だらけで「これでよく無事に生還できたものだ」と同僚に言われたという[4]。戦隊は各地を転戦し、終戦まで本土防空戦に従事した。最終的に第244戦隊では第2飛行隊長(とっぷう隊。旧第2中隊の後身)を務めている。

陸軍大尉で終戦を迎えたが、戦後は公職追放となり、職を求め各地を転々とし、故郷の福岡に帰ってからは平和台球場で売店を経営しパンや菓子を売っていたこともあった[3]。同期生から警察予備隊の受験を勧められ、飛行機に乗れそうだと1951年(昭和26年)12月、警察予備隊に入隊[4]保安隊では操縦課程の第1期生、保安隊時代にはL-16旭川に空輸した。戦後、北海道の空を日の丸のついた飛行機で初めて飛んだことが自慢だという[2]。その後、航空自衛隊発足により、転官。ジェット機操縦課程を経て戦闘機操縦課程入校のため米国へ留学し、帰国後は第1航空団で教官や第1飛行隊長を務めた[3]。その後は第6航空団司令南西航空混成団司令等の要職を歴任し、1976年昭和51年)9月6日に発生したベレンコ中尉亡命事件の際は北部航空方面隊司令官として対応した[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef