「竹田の子守唄」
赤い鳥 の シングル
B面「翼をください」
リリース1971年(昭和46年)2月5日
規格シングルレコード
ジャンル民謡
フォークソング
レーベルリバティ(東芝音楽工業)
作詞・作曲(日本民謡)
チャート最高順位
週間22位(オリコン)
赤い鳥 シングル 年表
誰のために
(1970年)竹田の子守唄
(1971年)美しい朝
(1971年)
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みんなのうた
竹田の子守唄
歌手ペドロ&カプリシャス
作詞者京都竹田地方の子守唄
作曲者同上
編曲者ヘンリー広瀬
映像実写
初放送月1974年12月 - 1975年1月
再放送月2015年10月 - 11月(ラジオのみ)
その他1981年9月23日の『みんなのうた20年』で放送(4番は除く)。
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竹田の子守唄(たけだのこもりうた)は、京都府の民謡、およびそれを元にしたポピュラー音楽の歌曲。「竹田の子守歌」とも[注釈 1]。1970年代にフォークグループ「赤い鳥」が歌ってヒットし、日本のフォーク歌手たちなどによって数多く演奏されている[1]。
1960年代の後半、うたごえ運動の展開を背景として京都の伏見区で採譜・編曲され、初めは合唱曲として歌われた。その後関西フォークの歌手たちのレパートリーとして取り上げられ[2]、「赤い鳥」の歌唱によってその叙情的なメロディーと歌詞とが評判になる[3]。しかし、歌詞と被差別部落との関係が取り沙汰されるようになると、放送自粛の動きが広まり、「放送で流されることのない歌としてはもっとも有名なヒット曲の一つ」となった[4]。 『竹田の子守唄』を採譜したのは、作曲家の尾上和彦である。1960年代半ば、うたごえ運動が広まる中で大学や労働団体には合唱団や合唱サークルが立ち上げられており[5][2]、尾上は「多泉和人(おおいずみ かずと)」のペンネームで作曲活動や民謡採譜のかたわら、これらのサークルに講師として招かれていた[6]。尾上は1962年12月から京都伏見区の竹田地区を訪れており、1964年2月からは部落解放同盟竹田深草支部(当時)の文化サークルとして組織された「はだしの子グループ」へのレッスンを開始していた[7][8]。 この年、東京芸術座による公演『橋のない川』の舞台音楽を担当することになった尾上は、12月になっても楽曲を完成できずにいた。翌1965年1月の公演が近づく中、尾上は創作のヒントを得るために、彼の下宿に居候していた「はだしの子」のメンバーである野口貢[注釈 2]の実母、岡本ふく(1914年 - 1983年)[注釈 3]を竹田地区に訪ねた。岡本ふくは三味線を弾きながら尾上のために「長持ち歌」など約20曲を歌い、これを尾上が録音した。ふくが歌った「守りもいやがる、盆からさきにゃあ、雪もちらつくし、子もなくし、コイコイ」という「コイコイ節」に強烈な印象を受けた尾上は、この歌の旋律をほぼ一晩で作り直し、1月5日に関西テレビでスタジオ録音、12日からの東京芸術座の公演にこぎつけた[7][8]。 尾上は依頼を受け、この曲を女声のための合唱曲として編曲し、歌詞を付け直した。これが「竹田の子守唄」である。「はだしの子」では1965年1月29日にこの歌の初レッスンがあったが、それ以前に、尾上が指導する他の団体でもこの曲が採り上げられていたと考えられる。合唱曲の依頼者については、同志社大学の合唱団「むぎ」、京都電通合唱団、全日本自治団体労働組合(自治労)京都合唱団のいずれかはっきりしない[8]。藤田によれば、合唱団「むぎ」のメンバーだったとする[9]「はだしの子」のレッスンで尾上は、これは「五木の子守唄」に匹敵するすごい曲だと言い、メンバーたちに曲の内容について話し合いをさせた。
経緯
採譜から合唱曲へ