竹槍
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インドネシア独立戦争で使用された竹槍(インドネシア、ジョグジャカルタ市のヨグヤ・ケンバリ独立記念館所蔵)。

竹槍(たけやり)とはを加工して製造された状の簡易武器である。
概要「スラバヤの戦い」を記念する「竹槍記念碑」(スラバヤ市)。

竹槍は、竹を柄にして先端に槍の穂先を結び付けた物と、竹を削って先をとがらせたものの2種類がある。

竹のみで作られた竹槍は、竹を適当な長さに切った上で、先端部を斜めに切断した、あるいはその円周の一部だけを尖らせたもので、更に火で炙るなどして硬化処理を施した簡易の武器であるが、竹が熱帯から亜熱帯温帯亜寒帯に掛け広い範囲に自生しているため、この竹自生地域ではほとんどタダ同然で入手できる武器である。ただしその威力は一度使用すれば貫通力が鈍る使い捨て程度で、こちらも「簡易」と呼ぶに相応しいものとなっている。

使用される竹は該当地域に自生するものに限られるため、その太さはまちまちである。しかし竹が垂直方向に繊維が揃っていて丈夫で、かつ中空であるため軽量、加えて使い捨てとはいえ白兵戦近接戦闘においては十分な殺傷能力を持っていたことから、広い範囲で様々な形で利用されていたと考えられる。

なお武器の性質としては竿状武器(ポールウェポン)となるが、その多くでは入手しやすいこと(=量産しやすいこと)から集団で利用するためにも便利が良く、これによって対象を相手の武器や牙・爪の間合いの外から取り囲んで、突いたり叩いたりして対象を攻撃するのに向いていた。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}太平洋戦争中の大日本帝国陸軍では制式兵器として竹槍を採用していた。[要出典]また、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線など、近代のゲリラ戦でも活用された。インドネシア独立戦争でも使用され、そのため独立を達成するまでの勇気と犠牲を象徴するものとされ、戦争記念碑などのモチーフとされている[1]
歴史

その起源は古く、竹林が自生する地域では鉄器文明以前から使用されていたとも言われているが、記録がない有史以前でもあり、材質的にも遺物として残りにくいため、詳細は不明である。
日本

日本では戦国時代にはすでに使用されていた記録があるが、当時は純粋な竹製のものだけでなく、(鋼鉄製の穂先を備えていたとしても) 柄が竹製であればいずれも竹槍と呼称していた[2] ので注意が必要である。明智光秀落ち武者狩りをしていた土地の農民らの竹槍に掛かり果てたとされる[3] 一方で、錆びた鑓との異説もあるのもこのためである。

江戸時代の百姓一揆による強訴は、支配層の武力転覆を狙ったものではなく、騒擾を起こすことによって責任問題を恐れる代官に要求をのませようとする性格の行動であったため、農民としての身分を表す農具が使用された。狩猟用具であった鉄砲や竹槍を持ち出すことはあったものの、攻撃のために使用することはほとんどなかった[4]。青木虹二が江戸時代に発生した一揆3710件を調査した中で、竹槍で役人を殺害した事例は一例しか存在しない[5]

近代以後も、民衆の暴動に際しては竹槍が活躍した。明治初年、農民は新政府の政策に反対する新政反対一揆の中で竹槍を頻繁に使用するようになった[5]地租改正反対一揆を諷した「竹槍でドンと突き出す二分五厘」と言う川柳は著名である。明治6年(1872年)の筑前竹槍一揆で使用された竹槍は現在も福岡市博物館に現存している[5]。これらの一揆は明治十年代には沈静化し、自由民権運動が活発化すると、民権運動家から百姓一揆は古い型の運動であると否定的に見られるようになり、竹槍はその象徴として「竹槍筵旗」(ちくそうせっき、たけやりむしろばた)という言葉で表現されるようになった[6]。明治31年(1898年)2月5日には衆議院議員選挙において、選挙人が刀剣や銃器・棍棒・竹槍を携帯することを禁じた決議が枢密院で行われている[7]。その後も1918年米騒動や小作争議、労働争議、外地における反日蜂起などで竹槍が用いられた。例えば1931年から1932年にかけて起こった栃木県阿久津村の小作争議(阿久津村事件)においては、猟銃や竹槍などで武装した労農大衆党員が、地主と結託して農民を弾圧した愛国主義政党・大日本生産党の演説会事務所を襲撃する事件が1932年春にあり、死者4名・重傷者10名を出し[8]、最終的に死者は5名となり、109人が殺人罪で起訴・35人が実刑判決を受けている。東京市は東京市民の飲用水のために大宮・浦和町(いずれも現さいたま市)にある見沼を貯水池として中禅寺湖の3倍の規模にまで拡大する計画を1934年に発表したが、これに対する反対運動が激化した際、東京日日新聞は「竹槍席旗化しはせぬかと気づかわれている」と評している[9]、この計画は最終的に1939年に撤回されている。

十五年戦争中の大日本帝国陸軍においては、竹槍が兵器として使用された。まず、日中戦争の勃発当初においては、輜重・兵站などの後方部隊における補助兵器として竹槍が配分された。その後、太平洋戦争中の1942年には大日本帝国陸軍の「制式兵器」(軍から兵士に配備される正規の兵器)として正式に竹槍が採用され、前線の兵士に竹槍が配備された。銃後の国民においても、1943年には陸軍が策定した「竹槍術」のマニュアルが配布され、学生や主婦など民間人の間で竹槍の製造と訓練が行われた。さらに1945年には竹槍は本土決戦に備えた「決戦兵器」と位置付けられ、国民義勇隊の主要装備のひとつとされた。また、軍では「制式兵器」としてだけではなく「自活兵器」(窮乏した兵士がありあわせの物から自作した兵器)としても採用され、使用する兵器に欠く陸海軍部隊が自作して小銃の代わりに装備した例が多見される。明治以前に一揆などで使用されていた物は長さが通常の槍と同じく3メートルから4メートルと長かったが、大日本帝国陸軍の制式兵器として規格化された竹槍は子供用が150センチほど、大人用が170?200センチほどだった。直径は3?5センチである。実態としてはというよりも銃剣の代用品であり、行われた訓練(竹槍術)は銃剣術と同じだった。

戦後では、昭和時代中期に新左翼過激派が鉄パイプや火炎瓶などとともに使用した例があり、例えば1971年の東峰十字路事件などで竹槍が使用された。
中国・台湾

中国・台湾でも昔から使用されていたようだ。明の時代には、日本刀で武装した倭寇に穂先を斬り落とされないように、枝葉の付いた青竹を竹槍の柄にする「狼筅」と言う武器が考案されている。

近代にいたっても、日本統治下となって日本軍による竹槍教練が始まる以前より使用されていたようだ。台湾において使用された例として、1930年に台湾原住民であるセデック族の民衆が日本人に対して蜂起した霧社事件において使用されたとの記録がある[10]

近代に入って中国の正規軍で竹槍を使用したという例は無く、むしろ毛沢東率いるゲリラ兵である八路軍の農民兵が拳銃で武装しているのに対し、これと対峙する日本軍は都市ごとに補給が分断されて武器がなくなり、正規軍なのに竹槍訓練をしていたという記録がある。
インドネシア

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