竹島外一島
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竹島外一島(たけしまほかいっとう)とは、明治初期の日本のいくつかの公文書で言及される日本海西部の日本と韓国の間にまたがる不確定な二つの島で、日本と韓国の間で領有権争いがある竹島について、その争点のひとつとなっている。

1877年明治10年)に発せられた太政官指令「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」や太政類典の「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした一文が日韓の竹島における領有権の解釈から問題になっている。鬱陵島江戸時代まで日本では竹島と呼ばれていたため、韓国はこの一文の「竹島」が鬱陵島で「外一島」が現在の竹島(独島)と解釈し、この指令は日本自らが現在の竹島(独島)を朝鮮領と認めている明らかな証拠であるとしている。(ただし、太政官指令には松島のことは全く書かれておらず、朝鮮領であるとも書いていない。)日本でこれと同様の考えを持っている学者は京都大学堀和生名誉教授と名古屋大学池内敏教授で、現在の竹島は1877年の時点では日本領ではなかったと主張している[1]
しかし現在の竹島が「竹島」として島根県に正式に編入される1905年までの明治期の近代的地図にはイギリス船の測量間違いを端に架空の位置に竹島が描かれ、鬱陵島が松島となっているため、日本政府や日本の一部の学者たちはこの「竹島外一島」は架空の竹島と鬱陵島を指していた可能性が高いとしている。[2]
「朝鮮国交際始末内探書」大東輿地図」の鬱陵島(1861年)。鬱陵島の東に現在の竹嶼と見られる「于山」と記された島が隣接している

太政官指令に先立ち、明治政府は朝鮮に人を派遣し江戸時代に日本から渡航し開発していた竹島(鬱陵島)について詳細に調査している。
その内容が1870年(明治3年)『朝鮮事件』の「朝鮮国交際始末内探書」に記載されており、その中に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」とした文がある[3]。江戸時代まで日本では鬱陵島を竹島、現在の竹島を松島と呼んでいたため、韓国ではこの一文を現在の竹島(独島)が自国領である根拠の一つとしている。

ところが、当時の朝鮮の文献では于山島が松島で朝鮮領となっており、また当時の多くの朝鮮の地図ではその于山島の位置がほぼ鬱陵島北東近傍の現在の竹嶼を指していた。(詳しくは于山島を参照)
また、「朝鮮国交際始末内探書」は「松島は竹島之隣島ニ而 松島之義ニ付是迄掲載せし書留も無之」と記して、松島が竹島(現在の鬱陵島)の隣島であり、これまで記録した文書が無いと報告している。竹嶼が鬱陵島の隣にあること、竹嶼の資料が当時日本にないこと、一方、松島(現在の竹島)は鬱陵島の隣島ではなくて、約90kmも離れていること、当時日本には松島(現在の竹島)の資料が多数存在していたことなどから、日本ではこの文面の松島は現在の竹嶼を指していると考えられている。原 文

一 竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末
此儀 松島は竹島之隣島ニ而 松島之義ニ付是迄掲載せし書留も無之 竹島之義ニ付而は元祿度之往復書翰手續書写之通ニ有之 元祿度後は暫く之間朝鮮より居留之もの差遣置候処 当時は以前の如く無人と相成 竹木又は竹より太き葭を産し人参等自然に生し其餘漁産相應ニ有之趣相聞候事
右は朝鮮國事情實地偵索いたし候処大略書面之通御座候間一ト先歸府仕候 依之件々取調書類絵圖面とも相添此段申上候 以上
    午四月
                          外務省出仕
                             佐田白茅
                             森山茂
                             斎藤栄現代文

一竹島と松島が朝鮮附属になった事情
この件につき、松島は竹島の隣島で、松島の件につきましては、これまで掲載した書類もありません。 竹島の件につきましては、元禄時の往復書簡、手続書写しの通りでした。 元禄時、後の暫くの間、朝鮮より居留の者を送っていましたが、現在は以前のごとく無人となり、竹木又は竹より太いを産し、人参等も自然に生じ、そのほか漁獲も相応にあると聞きました。
右は朝鮮国の事情を実地偵索いたしましたところ、大略、書面の通りでございましたので、ひとまず帰任いたしました。ご下命の件、取調べ書類絵図面とも添付しまして、ご報告申し上げます。 以上
    明治三年四月
                          外務省出仕
                             佐田白茅
                             森山茂
                             斎藤栄
「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」

1876年(明治9年)、内務省 地理寮の官吏が地籍編纂調査のため島根県を巡回した際、県に対して竹島の地籍編纂のため内務省に詳細を報告するよう要請した。

そのため、島根県は内務省に対して、下記の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」により、地籍への編入の可否について照会を行なった。この照会文書には、竹島へは大谷家と村川家が江戸時代に幕府の許可を得て渡っていたことが記された概略の文書と「磯竹島略図」が添えられていた[4]

日本海内竹島外一島地籍編纂方伺<2ページ目>(国立公文書館 アジア歴史資料センター)原文

    日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為本縣巡回ノ砌日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号之通照會有之候處本島ハ永禄中發見之由ニテ故鳥取藩之時元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間同藩領内伯耆國米子町之商大谷九右衛門村川市兵衛ナル者旧幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海島中ノ動植物ヲ積帰リ内地ニ賣却致シ候ハ已ニ確証有之今ニ古書旧状等持傳候ニ付別紙原由ノ大畧圖面共相副不取敢致上申候今回全島實檢之上委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ右大谷某村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何取計可然哉何分ノ御指令相伺候也
           縣令佐藤信寛代理
  明治九年十月十六日 島根縣参事境二郎
     内務卿大久保利通殿現代文

    日本海内の竹島他一島の地籍編纂についての伺い
御省(内務省地理寮官吏が地籍編纂の調査のために本県(島根県)巡回の際、日本海にある竹島の調査について、別紙乙第二十八号の通り照会がありました。本島は永禄年間に発見されたとあって、旧鳥取藩の時、元和四年より元禄八年までおよそ七十八年間、同藩領内伯耆国 米子町の商人大谷九右衛門 村川市兵衛なる者が旧幕府の許可を経て毎年渡海し、島の動植物を積み帰り内地に売却したのは間違いありません。今に古書・旧書状等を持ち伝えているので、別紙に事の起こりの概略を図面と共に添え、とりあえず上申致します。今回全島実検の上、委曲を詳細に記載すべきところですが、もともと本県の管轄に確定したわけでもなく、また北の海へ400km余りも離れ、航路も明らかではありません。普段、帆船等がしばしば往復しなければならない訳でもないので、右大谷家、村川家に伝わる記録につき、追って詳細を上申いたします。そして、そのおおよそを推察するに、管内隠岐国の北西方向にあたり、山陰一帯の西部に付属すべきかと思われますので、本県管轄図に記載し地籍に編入する等の件をどのように取り計らえば良ろしいか、何分の御指示を仰ぎます。
           県令 佐藤信寛 代理
  明治九年十月十六日 島根県 参事 境二郎
     内務卿 大久保利通 殿

磯竹島略図上記「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添えられた文書には竹島と松島の状況が書かれ、次に元禄時代に江戸幕府と朝鮮の間で鬱陵島(当時の日本名:竹島)の領有について争った竹島一件の内容が詳しく書かれている。そして元禄年間に書かれた鳥取藩「 ⇒小谷伊兵衛差出候竹嶋之絵図」を書き写し清書したと見られる「磯竹島略図<最終ページ>」が添付されている[5]。(但し、この文書には「大谷氏伝フ所享保年間ノ製図を縮写シ附ス」と書かれている。)
原文 (竹島と松島について書かれた最初の部分の抜粋)

磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ…(鬱陵島の状況)…次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス…現代文

磯竹島を竹島と呼ぶ。隠岐国の北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険で平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。…次ぎに一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島と同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又魚や獣が獲れる。…


この文には、磯竹島略図に記載の距離がそのまま書かれており、隠岐の北西120(約480km)に周囲およそ10里(約40km)の竹島があって、次の一島が周囲30(約3270m)の松島で、竹島と同一路線の隠岐より80里(約320km)にあるとしている。「磯竹島略図」は明らかに現在の「鬱陵島と竹島」を示しており、この文の「竹島」の状況や位置関係の比からすると「竹島外一島」は現在の「鬱陵島と竹島」を示していると言えそうだが、本文の距離と実際の距離は大きく食い違う。これは「磯竹島略図」が測量に基づくものではなく元禄時代の鳥取藩「小谷伊兵衛差出候竹嶋之絵図」にある距離をそのまま記載したものだからである。「磯竹島略図」の隠岐と松島の距離は八十里(320km)となっているが、隠岐から現在の竹島までの実際の距離は約158km、隠岐から鬱陵島までの実際の距離は約250kmで、当時普及していた近代的地図の鬱陵島を示した「松島」や架空の「竹島」に近い。江戸時代まで日本では鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいたため、韓国ではこの文や絵図を根拠に、後の太政官指令で「竹島外一嶋之義本邦関係無」とした「竹島外一島」を「鬱陵島と現在の竹島」と解し、日本と関係ないのであるから韓国領であるとしている。

韓国に帰化した世宗大学校保坂祐二教授は、明治時代以前の日本では地上も海上も同じ「里」としているがその距離概念は違っていたとしている。これらの距離の里を海里(1海里=1852m)として計算すると、鬱陵島と現在の竹島は実際の距離に近くなるとして、当時の日本の地図の記載間違いなどは日本の歪曲的解釈であり、1905年の竹島の島根県編入は日本の軍国主義による侵略の始まりと位置付けている[6]


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