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出典検索?: "竹島問題"
この項目では、日本海にある竹島をめぐる日韓の国際紛争について説明しています。
現在の竹島の状況については「竹島」をご覧ください。
第二の竹島問題については「竹島一彦」をご覧ください。
竹島(韓国名:独島) 女島(東島、写真左)と男島(西島、写真右)の2つの島、および37の岩から成る。
竹島問題(たけしまもんだい)とは、 日本領隠岐諸島と韓国領鬱陵島との間に位置する島嶼(日本名:竹島、韓国名:独島。順不同)をめぐる日韓両国間の国際紛争である[1][2][3]。竹島が日本の領土であることを主張する日本国政府は同島の領有権をめぐる紛争の存在を認めているのに対して、韓国の領土であることを主張する韓国政府は同島をめぐる領有権紛争は存在していないとの立場をとっている[4]。この点について専門家の間では、日本の領土であるとする論者[1][2]だけでなく韓国の領土であるとする論者[3]も、竹島の領有権をめぐる日韓両国間の紛争が存在するとしている。 第二次世界大戦後、日本の領域は1952年発効のサンフランシスコ平和条約より定められた。これに先立ち、同条約の発効によってマッカーサー・ラインが無効化されることを見越した韓国の李承晩大統領は李承晩ラインを設定し[5]、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。その後、1965年に締結された日韓基本条約で李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は竹島の実効支配を継続している。日本側は毎年韓国に「不法な支配である」との口上書を提出し、また国際司法裁判所での司法解決の提案をしているが、韓国側はこれを拒否している。 竹島(韓国名:独島)は、現在も日本・韓国双方が「歴史的にも国際法的にも自国の領土である」と主張し、北朝鮮も韓国の主張を支持している[注 1]。日本は戦後一貫して韓国に対し抗議しているが、韓国は「日本との間に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。 日本の行政区画では「島根県 隠岐郡 隠岐の島町」、韓国での行政区画では「慶尚北道 鬱陵郡 鬱陵邑 独島里」とされている。 外務省ホームページなどによれば、日韓双方の主張の相違点の概略は以下の通りである[6]。 両国の主張・論点日本側の主張韓国側の主張 日本側の主張によれば、現在の竹島は江戸時代には既に日本人によって幕府公認の下で鬱陵島に渡る際の航行の目標及び船がかり(停泊地)やアシカやアワビなどの漁猟として利用されていた。その後、明治政府は1905年1月の閣議決定で無主地であった現在の竹島を島根県隠岐島司の所管としたとしている[7]。 韓国側が領有の根拠としている古文献や古地図に登場する「于山島」については、これが現在の竹島だとする主張は事実にそぐわず、根拠がないとしている。他方、日本側が現在の竹島の存在を古くから認知していたことは数多くの文献や地図から確認できるとしている(詳しくは于山島を参照)。 また、1952年に韓国が設定した李承晩ラインは一方的なものであり、加えて、その後李承晩ラインが日韓基本条約によって廃止されたにもかかわらず韓国が警備隊を常駐させ竹島を占領し続けていることに国際法上何ら根拠がないと主張している。また、日本側が平和的解決を求め国際司法裁判所に付託することを何度も韓国側へ提案するも応じていないことも問題視している。 韓国側の主張によれば、現在の竹島(独島)は古代から于山島の名で知られている韓国の領土であり、1696年には朝鮮の安龍福が現在の竹島から日本人を追い返し日本に渡り幕府に抗議した。その後、幕府は鬱陵島(当時の竹島)と現在の竹島(当時は松島)を放棄したと判断している(日本側は鬱陵島は放棄したが、竹島は放棄していないという立場を採っている)。また、1877年に日本は太政官指令により鬱陵島と現在の竹島(松島)を日本の領土から除外しており、その後1900年に大韓帝国勅令第41号[8]が官報に掲載され、竹島(独島)は石島という名で鬱島郡(=現、鬱陵郡)の管轄となったとしている。日本側が領有の根拠のひとつにあげている1905年の竹島編入については、日本の「韓国侵略」の過程で行われたものであり、無効であると主張している。
概要
双方の主張
1.歴史的事実1650年代、伯耆国大谷・村川家が松島(旧名)を江戸幕府から拝領し経営している。15 - 16世紀の文献に「于山島」「三峰島」と記述されている。
2.1905年の竹島編入の有効性1905年2月、閣議決定および島根県告示により領有意思を再確認した。決定自体、それまで日本領土とみなしていなかった証拠である。
3.第二次世界大戦後の扱い1951年のサンフランシスコ平和条約以前の措置(GHQ覚書)は日本領土の最終決定ではない。1946年1月、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書により、小笠原諸島などとともに日本領から分離されている。
日本の主張の概略詳細は争点の項を参照
日本の江戸時代の松島(現在の竹島)を示す地図
日本では、江戸期に現在の竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。(「嶋」・「嶌」は「島」に同じ)
『松嶋絵図』(1656年頃)
『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成
『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成
『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成
長久保赤水『改正日本輿地路程全圖』(1775年)部分:神戸大学住田文庫所蔵
木村蒹葭堂『華夷一覧図』(1790年)
山村才助『華夷一覧図』(1806年):国立公文書館所蔵
高柴栄三雄
長久保赤水「亜細亜小東洋図」(写本、1857年)部分
韓国・北朝鮮の主張の概略詳細は「#争点」を参照