竹宮惠子
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竹宮 惠子
生誕 (1950-02-13)
1950年2月13日(74歳)[1]
日本徳島県徳島市
(徳島県板野郡北島町育ち)
職業漫画家、大学役員・教員
称号紫綬褒章
活動期間1967年 -
代表作『風と木の詩
地球へ…
受賞第9回星雲賞コミック部門
第25回小学館漫画賞
第41回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞
紫綬褒章
公式サイトTRA-PRO.COM
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竹宮 惠子(たけみや けいこ、1950年昭和25年〉2月13日 [1] - )は、日本漫画家[1][2]京都精華大学名誉教授[3]・元学長[4]。旧表記は竹宮恵子[5]

代表作は『風と木の詩』『地球へ…』など。昭和24年(1949年)前後に生まれて、漫画のみならず文化・社会に大きな影響を与えた女性漫画家たち「24年組」の一人である。徳島県徳島市生まれ、徳島県板野郡北島町育ち[6]福岡県朝倉市在住。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。
来歴
出生 - 幼少期

2人姉妹の長女として徳島市に生まれる[7]。父の竹宮義一は陸軍軍人で、スパイゲリラ戦の要員を育てる陸軍中野学校二俣分校一期生であった[8]

5歳頃から日常的に漫画を広告チラシの裏などに絵を真似て描くようになり、初期はわたなべまさこを手本にしていた[9][10]貸本屋で、クリスマスや記念日に親が漫画単行本や漫画雑誌を借りてくれ、日常は散髪屋で集中して読み、石ノ森章太郎から小島剛夕といった劇画まで選り好みせず読む子供時代を送った[11][12]。小学1年生の時に描いた絵日記にはグランドピアノが既に立体的に描かれていた[7]。小学3年生の時に北島町へ移り住む[13]。『冒険ダン吉』と『てるてる姫』の漫画単行本を持っていた[14]

雑誌付録の着せ替え人形に興味を持ったが、貸本を切り抜くことはできないため、自分で絵を描いて手作りしていた[15]。小学校高学年の頃、絵にセリフを付けるようになった[16]。遊び相手のいとこに「次はどうなるの?」と問われて描き足していった体験が、ストーリー性のある漫画づくりを理解するきっかけとなった[16][6]
中学時代

中学時代からコマを割って物語として本格的に描き始め[14]、30ページくらいのストーリー漫画を描く。当初はペン入れせず鉛筆描きで、『ユース6(シックス)』という作品が竹宮の手元に現存している。当時ブームだったウィーン少年合唱団や少女マンガで人気のバレエものにあやかり、バレリーナの姉とウィーン少年合唱団員の弟を主人公にした漫画を描き、同級生に披露したこともあったという[16]。両親には漫画を描いていることを隠して優等生を演じていたが、妹が両親に知らせていたという[17][18]

中学時代に長編漫画を描いたことは何度も竹宮本人が各所で述べているが、『少女マンガ家になれる本』では「中学校の三年間で全81話2400枚」[19]、『河合隼雄対談集』では「中学から高校にかけて、30枚くらいを80数話」[20]など、述べる時期により内容が微妙に変化している。また、その長編漫画は「全部燃やしてしまいました」と『少女マンガ家になれる本』で述べている。

1964年頃、講談社4誌合同による第1回少年少女漫画賞が開催された[21]。入賞したのは高校2年生だった里中満智子で、掲載された『ピアの肖像』を読んで竹宮は力の差を感じた[22][23]が、漫画家への憧れは募り、週刊誌連載を目標にする[24]

竹宮も同じ賞に応募したが落選したという。本人によれば、「中学3年のときに投稿してるんですよ。実は里中満智子さんがデビューされたときとまったく同じ回の講談社の新人賞に」[25]、「中学2年生の時に、講談社の第1回新人漫画賞に応募してみました」[26]のように中学生のときに第1回に応募したという発言があり、また「高校に入ってからプロになることを意識して、それでペンを使いはじめました。ちょうど里中満智子さんが高校生漫画家というので紹介されたのを見て、私も同じ賞に応募してみたんです。ところが箸にも棒にもかからなかった(笑)。初めてペンで描いた漫画を応募したんだから当たり前ですけど。」[27]のように、高校生になってから応募したという発言もある。
高校時代

1965年徳島県立城東高等学校に入学する[28]。同年に出版された石ノ森章太郎の『マンガ家入門』と収録された『龍神沼』を読み大きなショックを受け、石ノ森作品を端から読むようになる[29][注 1]。自作が石ノ森作品のコピーのようになっていた時期もあったという。当時は一人で漫画を描いていたが、『続マンガ家入門』でマンガ研究会の仲間集めについて書かれていたことに触発され、石ノ森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送った[30]。石ノ森から紹介された、漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり、「石森ファン筆頭」の同人誌『宝島』グループに参加し[31]、盛んに投稿する。週刊連載を目標にしていたため、『宝島』が竹宮特集号の観を呈したこともあったという[30]

高校ではフランス語の外語クラブに入り、文化祭の展示用に少女の絵を描くようなことはあったという[32][30]

高校2年の修学旅行で上京した際には同人誌の仲間に頼んで石ノ森の仕事場を訪問したという[33][34][35]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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