竹原
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この項目では、広島県竹原市にあった商家町について説明しています。自治体としての竹原については「竹原市」を、姓氏および旧村名については「竹原 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
本通り.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 竹原

竹原(たけはら)は、広島県南中部の地名。瀬戸内海に面する。本項では、江戸時代中期から明治にかけての町並みが残り安芸の小京都と呼ばれる商家町(町並み保存地区。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定)の歴史と特徴について述べる。
沿革2015年現在の地図。赤丸内に竹原町並み保存地区がある。左の河川が賀茂川で、右が本川。中央は塩田に海水を引き入れた江戸堀。1947年米軍撮影の空中写真。近世後半から市街地は本川下流に向かって発達した[1]。その西から南にかけてが塩田で点在する沼井が見える。江戸堀は呉線を超えて本川まで整備されている。
初期

古代、この地の中心は賀茂川中流域の新庄地区であり、飛鳥時代に(古代)山陽道が整備されると駅家「都宇駅」が置かれ、大化の改新の頃に湯坂温泉郷が宿場町として出来上がった[2][3]寛治4年(1090年)、中央政府が賀茂社(賀茂御祖神社いわゆる下鴨神社)に寄贈した荘園の中に「安芸国竹原荘40町」があった。これが竹原の名の初見である[2]。これ以降、この地は下鴨神社の荘園として発達、「賀茂」の名はこの頃から定着した[2]

中世の末頃から港を控えた市場集落として下野村の海岸付近(右地図の中通表記付近)に馬橋古市が形成された[4]。この市場集落は戦国時代までは機能したが、賀茂川からの流出土砂により港湾機能は失われ、天文9年(1540年)からそれより河口の下市村にその機能が移っていった[5]。この下市村が現在の竹原町並み保存地区にあたる。
近世

江戸時代初期、港町に加え製塩町となっていく[4]正保3年(1646年広島藩により賀茂川下流を干拓し新開が形成され、当初は新田開発を行うつもりだったが土壌に塩分が多く耕作には不適であったため、赤穂浅野氏としては広島藩が宗家で赤穂藩が分家になる)から製塩の技術者を招き塩田に転換、慶安3年(1650年)に製塩を開始すると産出に成功した[4]。広島藩としては初めての入浜式塩田の成功であった[6]承応元年(1652年)までに塩田は拡大、この地に大きな富をもたらした[4]

これに平行して、正保4年(1647年)本川堀の船着き場が開かれると、慶安2年(1649年)藩の年貢集積所”浦辺御蔵所”が設置されると米の積出港として、さらに塩田開発が進むと塩の積出港として栄え、廻船の往来も活発となった[5]。慶安4年(1651年)から寛文4年(1664年)にかけて竹原代官の指図でこの地は整備され近代的な港湾都市へと変貌していった[5]元禄期から正徳期には竹原の船主による四百石船から千石船も就航している。こうした廻船によって塩その他の産物は日本各地に出荷され、帰りには北日本から米を運びさらには大阪への輸送も請け負うなど海運業も栄えた(北前船)。

そして米が大量に流通していたことから、これを原料として酒造業が始まっている[7]。のち「安芸の小」といわれ藩内でも有数の生産地へと成長していくが、藩による販売制限があったことや天明の大飢饉などで米の供給量が制限されたことにより発展は続かなかった[7][8]

一方で享保年間末期には、他産地の成長に伴って市場は供給過剰となり塩の値段は下落し、製塩には塩分の濃縮のため大量の薪が必要であるが周辺の森林の減少を招いたため薪価格が上昇したことにより、収支バランスが崩れ、宝暦明和年間(1751年から1771年代)には塩田経営は不況となった[6][1]。この中で塩田の大規模化や質見世・酒造業・廻船業・問屋業など多角経営化に成功し財をなした商家が誕生し、大きな邸宅を構えるようになり現在に残る町並みや神社仏閣が形成されるに至る[6]。経済の発展と共に町人文化も充実し、茶道など京風の文化が栄えた他、儒学者の頼山陽の父頼春水とその兄弟である頼春風頼杏坪をこの街から輩出している。


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