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竹内峠(大阪府・奈良県境)写真左は国道166号、右側が旧街道
竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 km の日本最古(正確にはこの国が日本と名乗る事となった難波宮以前)の街道である。かつては丹比道(たじひみち)と言われた[1]。
羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が1974年から国道166号に指定されている。2017年には大阪で初めて日本遺産に認定[2]。また、太子町では一大イベントとして春に「太子聖燈会」、秋に「竹内街道灯路祭り」が毎年開催されている[3]。 二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ[4]。日本最古の官道といわれる。大阪府堺市大小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に所在する長尾神社までの約26キロメートルの道が現存している(内大阪府下は23キロメートル)[5]。両端の難波、飛鳥とも市街地になっていることから、かつて幅30 メートルあったとされる飛鳥時代の大道の面影は残されていない[6]。街道沿いには、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をはじめとする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を果たした幹線通りと考えられている[4]。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大仙古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。 竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内峠を越えていくことに由来する[4]。 竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に、後に上町台地に首都の難波宮が置かれる「難波(大阪市)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた難波大道などと同様、日本最古の「官道」である[4][5]。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大陸への使者として派遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な道路が必要だと考えて整備したものだといわれる[5]。現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路に繋がっている。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。 官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、既にかなりの人々の往来があったと思われる。
概要
成り立ち・歴史