竹内 綱
肖像写真
生誕天保10年12月26日(1840年1月30日)
土佐国幡多郡宿毛村[1](現宿毛市)
死没 (1922-01-09) 1922年1月9日(81歳没)
墓地谷中霊園
国籍 日本
職業実業家
政治家
政党自由党
運動・動向自由民権運動
配偶者竹内瀧子
子供竹内明太郎(長男・政治家)
吉田茂(五男・政治家)
親戚吉田健一(孫・英文学者)
麻生太郎(曾孫・政治家)
ェ仁親王妃信子(曾孫・皇族)
竹内啓一(曾孫・地理学者)
竹内明(玄孫・ジャーナリスト)
テンプレートを表示
竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日〈天保10年12月26日[1]〉 - 1922年〈大正11年〉1月9日[1][2])は、日本の武士(土佐藩士)、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎とェ仁親王妃信子は外曾孫。 目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力した。 慶応2年7月(1866年8月)、宿毛から16kmほど離れた阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊したことがあった[3]。対応に苦慮した宿毛領主・山内氏理は、竹内に小銃200丁を備えた歩兵2個小隊を付けて接触させた[3]。異国船の重装備を目の当たりにして当方に勝ち目なしとみた竹内は、隊内の打ち払い強硬論を尻目に単身黒船に乗り込み、言葉の通じない相手と悪戦苦闘の談判に及んでいる[3]。海洋測量が来港目的であること、翌日出港予定であることを確認したため、打ち払い中止を決するに至った[3]。しかしこの際、竹内は船内で応対した「紳士」に酒杯をもてなされて酩酊したため、打ち払いの指令を怠り、敵と飲酒したことを問題視した氏理らは猛反発した[4]。竹内は切腹処分となるところ、土佐藩がイギリス軍艦を歓待したことが判明したため、のちに放免となっている[3][5]。 戊辰戦争では、山内氏理の嫡男・氏成と共に兵を率いて北越・奥羽各地を転戦している[1]。 維新後の明治3年(1870年)、後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめる。しかし、時の上司と衝突したことから官界を退き、1873年(明治6年)には実業界に入る。 1874年(明治7年)、後藤象二郎主宰の蓬?社から高島炭鉱の経営を任され、2年後の決算では1ヶ月につき出炭3万トン、利益金5万5,000円の実績を収めている[6]。翌年からは、高島近辺にある端島・大島・香焼の鉱山開発に着手し、これも相当の出炭量と利益をあげている[6]。
生涯
生い立ちの子として土佐国宿毛に生まれる。
幕末
明治時代