竹内巨麿
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たけうち きよまろ
竹内 巨麿
『明治奇人今義経鞍馬修業実歴譚』(1912年)口絵
生誕竹内岩次郎
1874年5月12日?(戸籍上の出生日)
日本新川県上新川郡新保村
死没 (1965-01-27) 1965年1月27日(90歳没)
肩書き皇祖皇太神宮天津教教主
宗教神道(御嶽教・皇祖皇太神宮天津教)
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竹内 巨麿(たけうち きよまろ、1874年5月12日? - 1965年1月27日)は、日本の宗教家である。1900年(明治33年)に皇祖皇太神宮天津教(以下、天津教)を創立した。天津教の聖典であり、古史古伝のひとつである『竹内文書』を執筆したことでも知られる。出生名は岩次郎であり、ほかに経基(つねもと)とも名乗った。
生い立ちと天津教創立までの経歴
史実上の経歴

1874年明治7年)、新川県上新川郡新保村(後の富山県富山市)の寡婦・杉政みつの私生児として生まれる。父親は資料によって揺れがあり、『特高月報』1936年(昭和11年)4月号においては出稼ぎ中の木挽であった森山勇吉、同1937年(昭和12年)8月号においては姓不詳の木挽・竹次郎とある。生後まもなく婦負郡神明村(後の富山市)大字下野の小作農、竹内庄蔵の養子となる。出生名は岩次郎であり、戸籍上の出生日は5月12日である[1]

1891年(明治24年)に養父の死に伴い家を相続するも[2]1892年(明治25年)7月に単身上京する。石工および人夫頭であった竹橋松五郎家に寄宿した[3]。彼は東京市神田区(後の東京都千代田区美土代町の竹橋家に、宝物と称する荷物を預けていたこと、これによって6尺 (1.8 m)の押入れが一杯になり、同区三河町の火葬場人夫・岩田金六家などにも荷物を預けていたことが報道されている[4]。その後、1893年(明治26年)ごろ[3]脚気をわずらったことをきっかけに[5]、神田区錦町御嶽教会に入信する[3]。同教管長であった鴻雪爪の助言のもと、病気治療のため鞍馬山に出立し、5年間、六部として各地の古墳・神社・仏閣などをめぐったという[4]

1898年(明治31年)11月に御嶽教に戻り[6]、9月22日に名前を岩次郎から経基と改名する。藤原明は、彼が竹内家が清和源氏の流れもくむと考えていたことから、その祖である源経基の名前を借りたのであろうと論じている[6]1899年(明治32年)、御嶽教の行者として立ち寄った茨城県多賀郡北中郷村(後の北茨城市)磯原にて雨乞いを成功させ、これに感激した地元の住民である松崎新八が世話を申し出たことにより当地に移り住む[7]。『竹内文書』の執筆も、この年からすでにはじまっていたという[8]1900年(明治33年)には同地において御嶽教天津教会を開いた[6]
宗教上の経歴と竹内家のルーツ行者時代の巨麿。1897年(明治30年)ごろの撮影か。

天津教において、皇祖皇太神宮は、神武天皇以前の太古天皇が祭主を務めていた神社であるとされる。太古の天皇は、世界の支配者として天空浮船(あめそらうきふね)なる乗り物で世界を巡幸し、モーゼ釈迦孔子キリストマホメットといった古代の聖賢も、この神社で学んだとされた。しかし、度重なる天変地異によって太古日本は衰微し、こうした日本の栄華は忘れ去られることとなる[9]。清麿の養家である竹内家は孝元天皇の第4皇子・彦太忍信親王を祖とする家系であり、武内宿禰の代に「竹内」に姓を改めた[10]武烈天皇の時代には、天津教の分派にすぎない仏教がそれまでの伝統を圧迫するようになるが[11]、宿禰の孫である平群真鳥は天皇の密旨を受け、死を偽装して越中国に潜伏することで、文献、すなわち『竹内文書』および神宝を、仏教勢力から密かに護ることに成功した。その後、南朝後醍醐長慶天皇を庇護せんとした竹内家は、足利氏一向一揆前田氏といった当地の諸勢力から迫害を受け続けた[12]。これにより、竹内家は巨麿の10数代前に神代以来の名社であった皇祖皇太神宮の神官職を失い、竹内家は神宝のみを受け継ぐに至ったという[10]

竹内個人の伝記としては、長峰波山が本人の口述をまとめた『明治奇人今義経鞍馬修業実歴譚』と、同書を下敷きとする、巨麿の長男である竹内義宮がまとめた『デハ話ソウ』がある。これらの書籍によれば、彼は伯爵・庭田重胤が伊勢神宮遷宮にあたって勅使として出向した際、祭主藤波光忠の娘である奈保子との間にもうけた子供であった。しかし、奈保子は暴漢に襲われ自害し、巨麿は従者の下西九左衛門とともに落ち延びる。その後、巨麿は下西の遠戚である竹内三郎右衛門家に迎え入れられることとなり、身の安全を護るため、巨麿は竹内家が以前むかえていた養子である岩次郎とすりかえられる。17歳のとき、養父は死亡し、彼は母の仇をうつべく鞍馬山で修行し、諸国を巡ったという。彼は磯原で仇がすでに死んでいることを知り、生きる意味を失い自害を試みるも神に留められ、同地で天津教を興すこととなる。無論、これらの話は戸籍上の事実と、竹内の宗教家としての正当性に、辻褄を合わせるためのフィクションである[13]
教主としての経歴
明治・大正期の活動長慶天皇の「御骨毛髪壺」。竹内家伝来の「神宝」のひとつ。

1902年(明治35年)、彼は御嶽教本庁より権大教正に任ぜられた[10]。1911年(明治44年)には御嶽教の国常立尊および、天津教の天御光太陽貴王大神大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうおおかみおおてるひおおかみ)を祀る神殿を建立する[14]1923年(大正12年)には神職の資格を得て、翌年の1924年(大正13年)には南中郷村(後の北茨城市)の無格社である小渡神社・素戔神社・大塚神社の社掌となる[10]。このように、竹内は磯原で、御嶽教の教師として活動しながらも[5]、彼にとってのこうした資格は「布教便宜若は世人の信用を得んとする為の手段」にすぎず[10]、自らの持つ「宝物」を、世に広く知らしめるべく活動をおこなっていた[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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