竹内好
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竹内 好1953年
人物情報
生誕 (1910-10-02) 1910年10月2日
長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市
死没 (1977-03-03) 1977年3月3日(66歳没)
東京都武蔵野市
国籍 日本
出身校東京帝国大学
学問
研究分野中国文学
研究機関慶應義塾大学東京都立大学
主な受賞歴毎日出版文化賞(1970年)
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竹内 好(たけうち よしみ、1910年明治43年)10月2日 - 1977年昭和52年)3月3日)は、日本中国文学者文芸評論家思想家魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った。著書に『魯迅』(1944年)、『現代中国論』(1951年)、『日本イデオロギイ』(1952年)など。
経歴
出生から学生時代

1910年、長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)で生まれた[1]東京市麹町区富士見小学校、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を経て、1931年旧制大阪高等学校[2] から東京帝国大学文学部支那文学科に入学[3]1934年に支那哲学支那文学科を卒業[4]1953年、中国文学研究会での竹内(奥の右から2番目)。奥右端は武田泰淳

大学在学中に武田泰淳らと「中国文学研究会」を結成し、卒業後もそこを中心に活動した。メンバーには他に、増田渉松枝茂夫岡崎俊夫、松井武男、一戸務[5]小野忍実藤恵秀千田九一飯塚朗[6] らがいた。雑誌『中国文学月報』を発行し、1940年からは『中国文学』と雑誌名を変更して刊行[7]
大学卒業から終戦まで

1937年から2年間、北京に留学。1942年、第一回大東亜文学者大会が東京でひらかれたが、会として参加を拒否[8]。1943年、中国文学研究会は解散[6]1943年陸軍に召集。1945年8月、湖南省岳州で敗戦を迎え、1946年7月に復員した[9]
戦後

1949年に慶應義塾大学講師となり、1955年までつとめた[10]。『展望』1950年4月号に「日本共産党に与う」を発表し、日本共産党を批判した。1952年から1年間、東京大学非常勤講師を兼任[10]

1953年、思想の科学研究会会長となった[10]。雑誌『思想の科学』編集長もつとめた[11]。1953年、東京都立大学人文学部教授に着任[10]

1960年5月20日、新安保条約の承認が衆議院本会議で強行採決される。翌5月21日、竹内は強行採決に抗議して東京都立大学に辞表を提出。「憲法の眼目の一つである議会主義が失われた」「内閣総理大臣による憲法無視の状態の下で、東京都立大学教授の職に止まることは、公務員として憲法を尊重し擁護する旨の就職の際の誓約にそむき、かつ教育者としての良心にそむく」と述べた。竹内に翻意を求めた人文学部教授会は最終的に6月27日に辞表を受理した[12]。その後、雑誌『中国』を刊行。1961年から当時は珍しかったスキーを51歳で始め「老人スキー」を称した。

『魯迅文集』刊行中の1977年3月3日、食道癌により、東京都武蔵野市の病院で死去した[13]。66歳没。葬儀委員長は埴谷雄高がつとめた。墓所は多磨霊園(10-1-14)。
受賞

1970年:「中国を知るために」により、
毎日出版文化賞を受賞[14]

研究内容・業績

伊藤整野間宏らと国民文学論争を展開し、「近代主義民族の問題」(1951)「国民文学の問題点」(1952)「文学における独立とはなにか」(1954)などの関係諸論文を『国民文学論』(1954)にまとめた[15]
雑誌『中国』

雑誌『中国』の母体となった「中国の会」は、尾崎秀樹が普通社主宰で1960年ごろに立ち上げ、野原四郎、竹内、橋川文三安藤彦太郎新島淳良今井清一らをメンバーとした[16]。「中国の会」は、雑誌『中国』を1963年から、普通社のシリーズ「中国新書」の挟み込み雑誌として刊行[17]。しかし、同1963年に普通社が倒産したため、雑誌『中国』は、「中国の会」編集で勁草書房から1964年から1967年まで刊行[18]。さらに雑誌『中国』は、「中国の会」編集、徳間書店発行で、1967年から1974年まで刊行された[18]
魯迅研究

同時代の中国文学作品を翻訳紹介、ならびに研究し、晩年には魯迅研究に没頭した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

魯迅は、近代文学を建設した人である。魯迅を、近代文学以前であると見ることはできない。[省略] 魯迅には、前近代的なものが多く含まれているが、それにもかかわらず、前近代を含むという形で、やはりそれは近代というほかないようなものである。(「近代とは何か(日本と中国の場合)」1948年)[19]
主張・思想

戦後、明治以後の日本の近代史がどこで間違ったのかという問題意識を持って出発し、反戦の頑強なシンボルと目されていた日本の共産主義の行く末を厳しく見守る態度をとった。戦時中から取り組んでいた魯迅の研究は、必然的に中国の近代化の問題へと関心をひきつける結果となった。日本のマルクス主義史学への懐疑心が生まれ、開発途上国の近代化の過程は明治維新に代表される日本型が唯一のモデルではなく、もっと多様なのではないかと考えた。


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